2016.04.15 Fri

Written by ROOTS

インタビュー

己を磨き続ける“金狼” 森岡薫のROOTS。「自分に自信がないこと、それがルーツ」

写真:本田好伸

2012年に帰化申請が承認されるまで、ペルー人としてピッチに立っていた。フットサルとの出会いは遅く、21歳のとき。民間施設の“遊びのフットサル”から、日本代表まで上り詰めた。原点には、いつでもボールがあった。自宅前のストリートサッカーの記憶が、経験が、自身を形成してきた。日々、己を磨き続ける男、森岡薫を語る上で、決して無視することのできない、ルーツを紐解く──。
(文・本田好伸/FOOTBALL CULTURE MAGAZINE ROOTS編集長)

 Fリーグを9連覇中の最強クラブ・名古屋オーシャンズに所属する国内最高のプレーヤー。

 2007シーズンにリーグの初代MVPに輝き、その後も3回、同賞を受賞、2011年から4年連続得点王、過去5回のベスト5選出など、国内で獲れるタイトルや個人賞を総なめしてきた。

 生粋のゴールハンターとしてピッチに君臨し続け、円熟味を増すそのプレーはいまだかげりを見せない。

 森岡薫、36歳。

 彼は24年ほど前まで、遠く南米の地、ペルーで幼少期を過ごしていた──。

 

道路で蹴り続けた少年時代

 「おもちゃなんか、持ったことはなかった」。

 小さい頃からサッカーばかりしていた。他に楽しい遊びもなく、家の前の道路に線を引き、石を2つ置いてその間をゴールに見立てた。

「ルールは、ひざ下のシュートしかゴールが認められないことと、壁に当たったりしても続けるということだけ。時間も決まっていなくて、試合終了はどこかの家にボールが入ったとき」。

 大人も子どもも関係なく、6対6もしくは7対7で試合を行い、誰かが途中で抜けても、また別のメンバーが入ってきた。車が通れば一時中断するが、ときには車の下にボールが入り込んでしまうこともあった。

「ある家のおばさんが鬼のような人で、そこの屋上にボールが入ると、その人がハサミでボールを突き刺して使えなくしてしまう。家の前には、ボールが入り込まないように鉄線が張ってあり、それが体に刺さったこともあった」。

 そんな“危険な遊び”に参加することを、母親は嫌がっていたという。

「ペルーは危ないから、外に出るにも毎回、親の許可がいる。ダメと言われれば、家の中で過ごさないといけない」。やんちゃ盛りの森岡は、母親が出掛ける隙を狙って、外出することにしていた。

 あるとき、ペルー国内の情勢不安が原因でストライキが起きた。公務員もみんな働かず、学校も半年間休校。毎日サッカーに明け暮れた。

「母親が買い物に出掛けると外に出て、通りの角の新聞屋と仲が良かったから、見張りをお願いした。帰って来るのが見えたら『ピーッ』って口笛みたいに吹いて知らせてくれて、それを聞いたらダッシュで家に戻って、汗をかいていてバレてしまうから、筋トレをしながら帰りを待っている。そんなやんちゃな感じだった」。

 ペルーのストリートサッカーは、自宅前の通りが“ホームグラウンド”となる。横道にも裏通りにもそれぞれ別の“ホーム”があり、ときには“アウェイ”に参戦して、自分たちが使っているボールを懸けて試合をした。その“アウェイ戦”には、ホームの選抜メンバーしか出場できない。

「お手本にしたい選手はメッシとかネイマールみたいないわゆるスター選手ではなく、一緒に蹴っている19歳とか20歳の年上の兄ちゃんたち。その人たちが憧れであり、近くにいるのがすごいことだった」。そうやって、身近な人に憧れ、真似をして、スキルが磨かれていった。

「パスやシュート、ドリブルを教えてもらったことは一度もない。一つだけ教わったのはキープのやり方。向こうではボールを取られることが一番の屈辱だったから、壁を使ったりして、ボールをキープした。ときにはスライディングもするし、落ちているガラスの破片でケガをすることもあった」。

 サッカーのテレビ放送や地元のトップチームの試合もあったが、見ることはあまりなかった。

「やるほうが良かったから。サッカー選手になりたいわけじゃなかったけど、サッカーで一番うまくなりたいと思っていた。とにかく、ここで一番うまくなりたい、と」。

 気が付けば、才能が花開いていた。

「大会に出て4点決めたらスカウトから契約の話があった。でも母親に相談したら、日本に行くことになったからダメだって」。

 12歳の出来事だった。

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来日し、ボールを蹴らない毎日を送る

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