2016.03.02 Wed

Written by EDGE編集部

コラム

関東フットサル三国志/第10章「その7:王者イラン、開催国ウズベキスタンを破ってアジアの頂点に立つ!」

Fリーグができるまで、日本フットサルの頂点は間違いなく「関東」だった。その関東を軸に競技フットサルの歴史を振り返っていく当連載。昔からのファンはもちろん、フットサル観戦ビギナーや、Fリーグ以降にファンになった人には「最高の教科書」になるはずだ。
(文・木暮知彦/関東フットサルリーグ広報委員)

 全国リーグ設立の大きな目的に日本代表を強くすることがあることは言うまでもない。したがって、この頃は、全国リーグ設立と日本代表の活動がセットになって活発な動きがあった。まず、3月26日から4月3日にかけて日本代表のブラジル遠征(この遠征では、ロンドリーナ豊島、のちにシャークス神、ボツワナ北原が初代表)、5月のゴールデンウイーク中の第8回アジア選手権の壮行試合ブラジル代表戦、そして、アジア選手権、翌年は待望の第9回大会の日本開催などである。日本開催は、もともと2003年に計画されていたが、SARSの影響で中止になったもので、今回は全国リーグ設立前のタイミングを睨んでようやく実現が企画されたものである。さらに、日本開催前までに、ポルトガル遠征、再びブラジル遠征と海外遠征が2度も行われている。

 ちなみに、日本代表ではないが、プレデターが11回の選手権優勝チームとして、4月6日からブラジルで行われたインターコンチネンタルカップに出場している。結果は、以前にも紹介したが、スペインのブーメランに0-8、ブラジルのカルロスバルボーザに1-9と破れ、世界の壁を感じて帰国している。代表に選ばれた川原、高橋は、ブラジル遠征、そのまま残ってインターコンチネンタルカップ、帰国後すぐに関東リーグオールスター戦と大忙しであった。

 さて、そんな経緯を経て、2006年5月3日、5日、大阪市中央体育館および国立代々木競技場第一体育館で第8回アジア選手権の壮行試合が行われた。当時は、5月の半ばにアジア選手権が行われ、その壮行試合が連休中に行われることが定着していたが、今回の相手は特筆すべき相手であった。なんと、1ヶ月前に遠征したばかりのブラジルが壮行試合の相手だったのだ。

 恐らく、この壮行試合で一番感慨深いものがあった人物は、当時の大仁フットサル連盟会長だったかも知れない。なぜなら、この3年前、日本代表のブラジル遠征に大仁は帯同、7000人もの観衆が集まるブラジル代表との試合を見て、感動、日本に帰って当時の川渕チェアマンにフットサルの強化を訴え、ここまで来たからである。むろん、ここまでとは全国リーグ設立決定までである。この壮行試合の観客動員数は、関西が約5600人、関東が約8700人、合計14300人の動員を記録、全国リーグ設立発表に花を添えた。結果は、1-6、0-3と敗戦であったが、興行的には大成功であった。

 そのあと、日本代表はウズベキスタンのタシュケントで行われる第8回アジア選手権へと出発した。ブラジルとの大観衆を集めた壮行試合、来年は全国リーグ開幕と花火が上がったこともあり、今度こそイランを倒して優勝と期待は高まった。

 実際、すでに何度も書いたかもしれないが、この年の日本代表メンバーはピークのメンバーだった。悲願の世界選手権出場のピークから、若干、チームは若返り、再構築を行い、昨年はイランを倒すまでに至ったが優勝はならなかった。しかし、そのベトナム大会を経て、経験値は再びピークを迎えた感があった。

 すでに海外組といわれる言葉が定着した鈴村、木暮、小野の3人、成長した小宮山、高橋、経験豊かな藤井、前田、金山、豊島、守護神の川原、そしてベテランのキャプテン比嘉といった面々は、従来にも増して自信を持ってイラン戦に臨んだ。ちなみに、木暮は、前回大会に続いて2年連続でMVPに選ばれた。これは、イランのシャムサイーに続いて史上2人目のことである。

 決勝ではなく、準決勝で対戦したことも幸運だった。サッポの選手起用は同じ選手を使い続ける傾向にあり、これまでは決勝でイランと当たる前の準決勝で体力を消耗してしまうからだ。自信もあり、予選リーグが終了、中1日を置いてコンデションも万全ということで、結果は5-1の大差で勝利した。

 ついにイランを破って決勝へ駒を進めるという今までにないパターンで決勝戦を迎えることとなった。決勝の相手は、開催国ウズベキスタンである。ウズベキスタンとは、第5回の世界選手権出場を決めたときの準決勝の相手で、この試合も自信を持って臨めた。結果は。こちらも5―1で勝利、ついに悲願のイランを破り、8年目にしてアジア選手権優勝を遂げたのであった。

 いつもだったら表彰台に上がるイランの選手達の勝利の歓声を、下から見上げるだけの日本だったが、この日だけは立場が逆転した。当時の日本サッカー協会の小倉純二会長、大仁副会長の姿も見える。

 表彰台の選手達もそれぞれ感無量であったに違いない。第1回のアジア選手権以来、選ばれた代表は約100人、候補も含めると200人以上の選手達の集大成がこの優勝だったことは、表彰台に上がった選手達が一番わかっていたことだろう。

 しかし、喜んでばかりはいられない。辛口に考えれば、イランはこの時がもっとも不調期であった。主力選手のヘイダリアンはすでに引退、シャムサイー依存から若手への切り替え中であったから、日本の絶頂期とイランの絶不調期が重なれば、8年に1回くらいは勝つこともある。実際、翌年の日本開催のアジア選手権以降、日本は2位、3位と下降戦をたどり、逆にイランは上昇、ついに2008ワールドカップでは、ベスト4にまで躍進した。

 まったく、皮肉なことに、日本代表強化のための全国リーグ正式発表の年が、日本代表のピークであり、国際試合数のピークでもあった。以降、毎年開催だったアジア選手権が隔年開催になったこともあるが、全国リーグの日程優先から、国際試合は激減し、成績も下降意味になるのであった。

 お宝写真は、もちろん、アジア選手権優勝の表彰台で歓喜する日本代表のメンバー達にしよう。

 しかし、残念なことに、同じウズベキスタンで行われたつい先ごろの第14回アジア選手権では、周知のとおり、日本は5位決定戦にも敗れ、優勝どころかワールドカップ出場も逃してしまった。

 振り返ってみれば、2000年5月、今からおよそ16年前に「バンコクの悲劇」が起きたことは賢明なる読者ならば覚えておられるであろう。筆者は、これを思い出してしまった。なぜなら、その時の状況と極めて似ているからである。

 まず、多少こじつけかも知れないが、ワールドカップ開催地が当時はグアテマラで、今回はコロンビアだったこと。中央アメリアの北部と南アメリカの北西部、わずか飛行機だと1、2時間の距離である。フットサル日本代表にとっては、鬼門の方向だったのだろうか。

 次に、似ている状況は、ワールドカップは確実に行けるのではないかという下馬評があったことである。「バンコクの悲劇」の時は、1年前の大会が4位、その経験から3位以内には入れるだろうという甘い期待があった。そこには新たに結成した日本代表を初の世界選手権へ送り込むという願望が輪をかけていた。メンバーにしても、相根、上村、市原、藤井、前田、難波田、鈴村など、今にして思えば、当時の最強メンバーを揃えていた。今回も、2年前の優勝、直前の壮行試合の2連勝、史上最強と言われる布陣、5位以内ならば出場可能、もはやアジアではなく世界ベスト16位以上など、甘い罠がいっぱいあった。

 3つ目は、負け方が似ている点である。「バンコクの悲劇」の時は、準決勝でカザフスタンと対戦、勝てば2位以上で世界選手権出場を果たすという状況で、前半を2-1でリードしながら後半はリズムを崩し、藤井のレッドカード退場もあったりして6-9で敗戦、3位決定戦に回ってしまう。そして、地元タイとの3位決定戦、前半は3-2のリードで終えた。しかし、試合内容は押していたが後半にやられ、結局6-8で敗戦、世界選手権出場の夢はならなかった。今回も、内容では押しながらベトナムに延長PKで敗戦、5位決定戦に回って、結局、ワールドカップ出場を逃してしまった。

 さて、問題は「バンコクの悲劇」から何を学び、敢えていうなら「タシュケントの悲劇」から何を学ぶかである。「バンコクの悲劇」のあとは、選手に対して相当な批判が挙がった。曰く、アマチュア論、まちのアンチャン論である。ついにはJリーガー待望論まで出た。これに対し、選手、サポーター達自らが立ち上がった。それが、スーパーリーグの立ち上げであり、やがては全国リーグにつながるのであった。彼らの飢餓感は大変なものがあった。協会も、日本代表強化を打ち出し、海外遠征を急激に増やしていった。結果、4年後にはワールドカップ出場、6年後の2006年にはアジアNO1を達成したというわけである。

  では、「タシュケントの悲劇」の次は何か。それは、Fリーグの完全プロ化に尽きるのではないだろうか。2020年には再び、サポーター達の歓喜のシーンが見られることを祈願して、もう1つの写真は、タシュケントで優勝したあとの応援団と選手の歓喜の一コマとした。

ウズべキ応援団

※この連載は毎週水曜日・金曜日の2回更新予定です。

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