2015.12.16 Wed

Written by EDGE編集部

コラム

関東フットサル三国志/第9章「その3:関東リーグが最も熱かった1年。プレデターと府中の補強合戦」

Fリーグができるまで、日本フットサルの頂点は間違いなく「関東」だった。その関東を軸に競技フットサルの歴史を振り返っていく当連載。昔からのファンはもちろん、フットサル観戦ビギナーや、Fリーグ以降にファンになった人には「最高の教科書」になるはずだ。
(文・木暮知彦/関東フットサルリーグ広報委員)

 全国リーグ設立となると、国内トップリーグと目されていた関東リーグは、その名を全国リーグに明け渡すことになる。いくつかのチームは全国リーグに参入、関東リーグを出ていくであろうし、選手の移籍も始まる。

 今にして思えば2005年の第7回関東リーグは、関東三国志においてピークのシーズンだったと振り返ることができる。なぜならば、このシーズンから、上位、下位リーグ制を採用、1チームあたりの試合数を増やすとともに、より試合を白熱化させたからである。

 まず、シーズンの前半は、通常どおり総当たり1回戦のリーグ戦を行う。前シーズンだったらこれで終わりである。しかし、第7回からは、上位6チーム、下位6チームに分かれて再び総当たりのリーグ戦を行う。この結果、今まで年間9試合だったものが14試合に増えることになる。そして、総合順位は、上位リーグの順位に続いて下位リーグの順位になるから、下位リーグに入った場合は、もはや優勝はできない。

 したがって、まずは前半に上位リーグに残れるかどうかの面白さがあり、後半には、上位リーグでの優勝争いと下位リーグでの残留争いの面白さがあって、シーズン2回楽しめるというものである。

 全なホーム&アウェイではないが、試合数が増え、白熱化したこと、および観客動員数が増えたことから、この年をピークシーズンと歴史的には位置付けたい。また、全国リーグ参入を目指すチームは、今シーズン、来シーズンの成績が重要になるため、移籍による強化が行われた。なかでも、プレデターと府中アスレティックは、早くから参入の準備を進めていただけに、戦力強化も盛んであった。 

 プレデターは、すでに2004年にカスカベウから相根澄、安藤信仁、関西のカンカンボーイズから江藤正博、順天堂大学の高橋健介を獲得していたが、2005年の今シーズンは、静岡の田原FCからGK川原永光を、フィールドプレーヤーでは関西のマグから福角有紘を獲得した。先のことになるが、2005年末には関西のマグから藤井健太を獲得している。

 一方、府中アスレティックは、2005年の今シーズン、カスカベウから前田喜史、同じくシャークスから石渡良太、ガロから小山剛史らを獲得した。いずれも、日本代表クラスで両チームの並々ならぬ意欲が窺える。

 迎え撃つファイルフォックスは、ブラックショーツから森岡薫、カスカベウから鈴木隆二を獲得、連覇を狙った。

 しかし、絶頂期とは次第に下っていくことも意味し、翌シーズンになると関東から他地域への移籍も起こり、関東から数多く選手権優勝チームを輩出し続けてきた歴史も今シーズンでいったん途絶えてしまう。

 今シーズン終了後の第11回選手権はプレデターが優勝した。しかし、翌年は東海の大洋薬品バンフ、その翌年はもう全国リーグが設立されてしまうのだ。つまり、プレデターは、全国リーグ設立までの最後の選手権優勝の関東リーグチームということになる。もっとも、フウガによって1回復権をなすが、これはのちの話となる。

 ちなみに、全国リーグ設立までの選手権優勝チームは第1、3回のルネス学園(関西)、第2回府中水元クラブ、第4、5、7、10回のファイルフォックス、第6回カスカベウ、第8回ロンドリーナ、第9回バンフ東北(東北)、第11回プレデター、第12回大洋薬品バンフと続き、関東は12回中8回優勝チームを輩出したことになる。面白いことに、関東の両雄(ファイルフォックス、カスカベウ)が出てきて、競技フットサルが本格化した第4回以降、Fリーグが設立されるまでは関東以外の優勝チームはバンフ系のチーム以外にない。つまり、バンフの桜井嘉人が常に関東に立ち向かっていたということになる。それが、原動力となって今の名古屋オーシャンズがあるのかも知れない。

 さて、お宝写真は、このたび引退を表明したバルドラール浦安の高橋健介にしよう。どんな写真にするか迷ったが、引退会見(【引退会見全文】バルドラール浦安・高橋健介「“浦安の男”で終われて良かった」)でベストゴールの質問に、第7回アジア選手権準決勝キリギスタン戦のゴールを挙げていたので、繰り上げてこの写真にすることにした。(第7回アジア選手権の詳細は次回)

 高橋は、北海道出身で東京に出てからは、サロンフットボールの経験を活かし、サッカーとフットサルの2足のわらじを履いていた。実際、第8回全日本選手権では北海道代表のディヴェルティードSSPで出場しベスト4に入っている。しかし、第9回では、グループリーグで関東リーグのチームに0-6で敗れ、それがきっかけでプレデターに入ったのだ。(フットサルナビのインタビューより)

 こうして、2004年にはプレデターに入団、関東リーグで本格的にフットサルに取り組むことになった。そしてめきめき頭角を現し、2004年11月に行われる世界選手権メンバーに選ばれ、壮行試合のアルゼンチン戦では早くも得点を挙げる快挙を成し遂げた。シンデレラボーイと呼ばれる由縁である。

 しかし、世界選手権では活躍できず2005年を迎えた。その年の5月、ベトナムで行われた第7回アジア選手権に再び選ばれた高橋は、準決勝のキリギス戦に臨んでいた。すでに予選2次リーグでイランに初勝利、準決勝に駒を進めただけに負けるわけにはいかない。 しかし、その気負いからか、なんと前半終了間際まで0-3とリードを許してしまう。

 その状況で生まれたのが、インタビューで候補に挙がったベストゴールの1つであり、冒頭のお宝写真である。

 おそらく、再び、日本代表に選ばれたものの、内心では世界選手権で活躍できなかったもどかしさが常にあったのではなかろうか。まさにそれを吹き飛ばすゴールで、前半を1-3で折り返すと、後半ついに逆転、決勝に進める値千金のゴールになったのである。

 秀逸だったのは、キーパーとディフェンスの間に入り、するっとフリースペースに流れ、木暮からのパスをフリーで受け、そのままダイレクトにアウトサイドで流し込んだセンスである。その後の高橋を象徴するゴールであり、高橋のその後の原点になったゴールではないだろうか。ベトナムまで応援に駆け付けたサポーターはしばらく高橋に足を向けて寝られなかったことであろう。

 是非、そのセンスを活かして指導者の道を歩んで欲しいものである。

※この連載は毎週水曜日・金曜日の2回更新予定です。

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