2015.10.30 Fri

Written by EDGE編集部

コラム

関東フットサル三国志/第7章「その6:プレデターの法人化、府中のNPO立ち上げ。全国リーグ設立の機運高まる」

Fリーグができるまで、日本フットサルの頂点は間違いなく「関東」だった。その関東を軸に競技フットサルの歴史を振り返っていく当連載。昔からのファンはもちろん、フットサル観戦ビギナーや、Fリーグ以降にファンになった人には「最高の教科書」になるはずだ。
(文・木暮知彦/関東フットサルリーグ広報委員)

 アジア選手権が終わった2004年5月1日、第6回関東リーグが始まった。しかし、話は少し戻して、その約1ヶ月前の4月11日に行われた第4回地域チャンピオンズリーグについての報告をしておく。本来、地域チャンピオンズリーグは、その年の地域チャンピオンを決める大会であるから、年度内に行われるべきものだが、この時はまだ、年度にまたがって行われた。

 優勝は、決勝戦で北海道のダイワスポーツ札幌を7-4で下したシャークスであった。シャークスのメンバーには大森茂春(のちにバルドラール浦安、マルバ)、広瀬孝夫(のちにファイルフォックス)、岩本健寿、松浦英、下山修平、横山哲久、村松淳司、鵜飼孝、関新、GK角田麻人らがいた。

 一方のダイワスポーツ札幌には、監督の小野寺隆彦(のちにエスポラーダ北海道監督)、鈴木則和(のちにエスポラーダ北海道コーチ)、神敬治(のちにパサジイ大分、エスポラーダ北海道)らがいた。

 シャークスは、関東リーグ優勝に続いて地域チャンピオンズリーグに優勝したので2冠を達成したことになる。のちにシャークスは、Fリーグを目指して関東リーグを離脱、静岡県リーグに移る行動に出るが失敗、結果的にチームは消滅してしまう。したがって、この優勝がシャークスにとってFリーグにもっとも近づいた時だったといえるだろう。

 ちなみに、関東からはシャークス以外にカスカベウと府中アスレティックが出場していたが、カスカベウは日本代表に前田喜史、金山友紀、稲田祐介を取られ、準決勝で4-7のスコアでダイワスポーツ札幌に敗退、府中アスレティックは、シャークスに1-1のPK戦で敗退している。同時3位にカスカベウと府中アスレティックがなった。

 そして、5月1日、第6回関東フットサルリーグが始まった。世界選手権に出場できるかも知れない期待が現実のものになり、全国リーグ設立の動きもちらほらサッカー協会から聞こえてきたのもこの時期である。たとえば、この頃、サッカー協会フットサル委員会副委員長の松崎康弘は、フットサルマガジンピヴォ!のインタビュー記事の中で、早い段階で全国リーグを立ち上げたいと述べている。また、その前提には、今度の世界選手権に出場できることとも述べていた。それほど、今度のアジア選手権での結果は大きかった。

 となると、全国リーグを目指すチームにとっては、実力と運営能力が重要になり、この頃からその準備にとりかかるチームが現れた。その先駆者がプレデターである。プレデターは、すでに紹介したとおり、ブラジル帰りの市原を獲得していたが、この年からさらに大型補強を行い、戦力強化を図った。

 カスカベウから相根を第5回関東リーグの終わり頃に獲得、この年は同じカスカベウから昨シーズンの関東リーグ得点王の安藤信仁、関西のカンカンボーイズから2003年度関西得点王の江藤正博を獲得している。さらに、北海道のdivertidoから若い高橋健介(のちにスペインのセゴビア)がデビューしている。江藤は、第8回選手権でロンドリーナが優勝したとき、決勝戦の相手、カンカンボーイズにいた選手で2003年タイランド5の日本代表に選ばれている。

 また、運営能力の面でも2003年から、法人化を行い、フットサル界に契約という概念を持ち込んでいる。実際、スポンサーとなる企業が増えてきて、経理面でも法人化にしておかないと不都合が生ずるようになってきた。

  府中アスレティックも同様で、同じく2003年にNPO法人を立ち上げている。戦力の方は、大型補強はないものの昨シーズン、関東リーグ、地域域チャンピオンズリーグとも3位の経験から、完山徹一、伊藤雅範、中沢亮太(のちにカフリンガ)、森拓郎、三井健(のちにファイルフォックス、デウソン神戸、バルドラール浦安、現在は府中アスレティック)らのレベルアップが期待された。  

  ちなみに完山は、鳥取出身で、フットサルテクニックで有名な奥山蹴球雑技団を経て、上京、府中アスレティックに前年第5回の終盤から入団した。高校時代はアルゼンチンにサッカー留学の経験を持つ。のちに、名古屋オーシャンズに移籍、Fリーグに上がった。現在は府中に戻っている。

  以前に読売ユース出身、FC東京と紹介した伊藤雅範は、さらに2003年の第4回の終盤から参加したが、のちにファイルフォックス、デウソン神戸と移籍、日本代表にも選ばれた。その後、バサジイ大分の監督、現在は、長野県の日本ウェルネススポーツ大学及び日本ウェルネス高等学校でフットサルの指導に当たっている。

  一方、迎え打つ2強のファイルフォックスは、渋谷ユナイテッド稲葉洸太郎、岩見祐介(以前、読売ユースと紹介、のちにステラミーゴ岩手)らを加え、カスカベウは、マグから狩野新(のちにペスカドーラ町田、日本代表の経験もあり、現在はヴォスクオーレ仙台)、インペリオから関根允を加えている。

 もう一つ、充実したことがある。それは、2004年7月、教育リーグのスタートである。いわゆるサテライトリーグのことで、戦力強化には若手の育成が不可欠である判断から、関東リーグの有力チームが集まって、私的な下部リーグを作ったのである。人数が多く集まり、出場機会に恵まれない選手がいる事情もあった。

 ほとんどの関東リーグのチームが参加したが、練習メニューや時間も違って明確にサテライトとして区別しているチーム、区別なく、練習もトップと一緒で出場機会だけないメンバーが多くいるチームなど事情は様々であった。しかし、それだけ、人数が多くいたということは事実で、関東リーグのピッチに立つということが、フットサル選手にとって一つのステータスになりつつある証拠であった。そして、この努力がFリーグ設立につながったと思うと、関係者の努力に敬意を表したい。

 なお、コートはミズノフットサルプラザ味の素スタジアムの好意により、格安で提供してもらった。また、審判は当時関東圏のフットサル審判員有志20数名が集ったFRSG(フットサル審判スタディーグループ、代表後藤昭明 2003~2013)が、審判としてのスキルアップの為に協力を名乗り出てくれた。

 このように、公的ではない手作り感のある育成リーグまで整備を行い、日本リーグ設立も視野に入れて、ますます充実していく関東リーグであった。

 さて、お宝写真は、知る人ぞ知る教育リーグの会場、ミズノフットサルプラザ味の素スタジアムの1シーンにしよう。早く関東リーグの試合に出たい選手同士の激しいぶつかりあいで、ピッチは熱気にあふれていた。観客席などなく、特に告知をしているわけでもないのに、ファンも多く集まった。懐かしく思う読者もおられると思う。

 写真には、特に熱心にサポートしてくれた、FRSG代表の後藤が映っている。現在、氏は、東京都電動車椅子サッカー協会副会長を務めるなど、電動車椅子サッカーの審判として活躍している。

※この連載は毎週水曜日・金曜日の2回更新予定です。

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