2015.10.21 Wed

Written by EDGE編集部

コラム

関東フットサル三国志/第7章「その3:日本代表応援団『ポエイラ』発足!団長は山川太郎」

Fリーグができるまで、日本フットサルの頂点は間違いなく「関東」だった。その関東を軸に競技フットサルの歴史を振り返っていく当連載。昔からのファンはもちろん、フットサル観戦ビギナーや、Fリーグ以降にファンになった人には「最高の教科書」になるはずだ。
(文・木暮知彦/関東フットサルリーグ広報委員)

 2004年3月、都内某所のブラジルレストランである懇親会が開催された。日本代表応援団主催の第6回アジア選手権日本代表壮行会(懇談会)である。会場には、栄サッカー協会フットサル委員長をはじめ、サッポ日本代表監督、そして日本代表メンバー(定永、遠藤、市原、難波田、木暮、小野、稲葉)が出席し、代表応援ツアー参加者、一般参加者から大きなエールが送られた。これが実質的な日本代表応援団の発足である。

 会場では、日本代表の試合ビデオが流され、サッポ監督の挨拶、選手の挨拶、応援団の挨拶などが行われ、世界選手権出場の決意のほどが大きく感ぜられる会合となった。恐らく、このような会合の開催は、今ではなかなか実現が難しいと思われる。当時は、なんとか世界に行ってもらいたい、世界に行けば何かが変わるという関係者の想いがこれを実現させたものと思われる。

 応援団の名称はポエイラ(Poeira)といい、名付け親はサッポ監督である。意味はポルトガルで埃(ホコリ)だそうで、サポーターの応援がスタジアムの中に「埃」を巻き起こす、スタジアムに「埃」が巻き起こるくらい、情熱的で激しいサポーター集団の応援というコンセプトであった。

 むろん、有志で作られた私的な応援団ではあるが、これを機会にフットサルを盛り上げようと、今まではスーパーリーグあるいは関東リーグでそれぞれのチームの応援をしていたシャークスサポータの「トヨ」、ガロサポータの「ワカン」らのメンバーが集結したのであった。

  団長には、山川太郎がなった。山川は、高校時代はサッカー部に所属、その後、神奈川県リーグのフットサルチーム「湘南蹴族」でフットサルをやるようになり、「湘南蹴族」は最後のシーズンのスーパーリーグに参戦もしている。スーパーリーグは私的なリーグだったので、応援も派手に行うことができ、選手、サポーターの交流も盛んに行われていた。したがって、十分下地はできていた。本来なら2003年の日本開催予定のアジア選手権で集結する予定であったが、SARSの影響で返上になり、今回の選手権で集結となったという。

  振り返ってみれば、アジア選手権がマカオ、世界選手権が台北と比較的日本の近くでかつ治安もよい都市で開催されたことは幸運だったといえる。これが、ブラジルあるいはイランで開催となると、集結も難しかったであろう。実際、ポエイラの影響で、ツアーも組まれ、多くの応援団がまずはマカオに集まることができた。

 マカオ、台北でのサポーターの活躍ぶりは、のちに記述するとして、山川をはじめ、サポーターの多くは日本代表を応援したい気持ちは当然のことながら、こんなに面白いスポーツをもっとみんなに知ってもらいたい、フットサルをメジャーなスポーツにしたい、その役割を担いたいといった想いもあったように思う。本格的に日本代表のサポーター組織が誕生したことは、フットサルが1人前のスポーツとして育ちつつある証といえるであろう。

 お宝写真は、日本代表応援団ポエイラが集めた全国各地のフットサル施設、会場で応援の寄せ書きを集めた日の丸の旗にしよう。団長の山川は、当時のフットサルナビの取材にこう述べている。「この旗を思いついたきっかけは、選手達に日本中から応援されているということを伝えたかったからです。だから、全国から集めなくてはならなかったのです。熱い想いがビッシリと書かれた日の丸を見ていると何が何でも世界選手権の切符を勝ち取ると私たちも燃えてきました。」

ポエイラ2

 あわせて、会場の電光掲示板に映し出されたサポーター達の応援を紹介する。これは、決勝のイラン戦の前のものである。

※この連載は毎週水曜日・金曜日の2回更新予定です。

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