2015.10.14 Wed

Written by EDGE編集部

コラム

関東フットサル三国志/第7章「その1:相根、木暮、小野、稲田。ピヴォを重用したサッポ監督」

Fリーグができるまで、日本フットサルの頂点は間違いなく「関東」だった。その関東を軸に競技フットサルの歴史を振り返っていく当連載。昔からのファンはもちろん、フットサル観戦ビギナーや、Fリーグ以降にファンになった人には「最高の教科書」になるはずだ。
(文・木暮知彦/関東フットサルリーグ広報委員)

 2004年2月、選手権が終わってわずか1週間後、早くも日本代表候補合宿が始まった。この年は「見る」フットサルの究極ともいうべき世界選手権(現在のFIFAフットサルワールドカップ)開催の年であった。バンコクの悲劇といわれ、4位に終わった第2回アジア選手権から4年が経ったのである。そして、4月に行われる第6回のアジア選手権に3位以内を確保すれば世界選手権に出場できるのだ。

 ちなみにバンコクの悲劇からの選手権の成績は、第3回(テヘランにて開催、監督木村和司)は4位、第4回(ジャカルタにて開催、監督原田理人)は2位、第5回(バンコク)にて開催、監督原田理人)2位となっている。むろん、優勝はいずれもイランである。しかし、この2位は意味が大きい。なぜなら、常勝のイランとは予選リーグでは同一ブロックにならず、決勝トーナメントも別の山の組み合わせになるからである。

 呼ばれた候補は、GKを含め、合計20名であった。そのうち、14名が代表としてアジア選手権に参加する。地域の内訳をみると、関東が12名、関西が6名と半数以上が関東で占められた。残りの2名は東海地域のGK川原とFC琉球に所属していた関係で地域は九州・沖縄の比嘉である。

 サッポ監督になって新しく呼ばれた選手は、関東では、小野、稲葉、稲田、GK石渡であった、いずれもすでに当三国志には登場した選手で、いつ候補に呼ばれてもおかしくない選手達である。中でも注目は、小野と稲田であった。なぜなら、2人とも役割はピヴォだからである。すでに、ピヴォには相根、木暮がいたが、相根はすでにベテランとなっており、木暮はピヴォに抜擢されてから間もない。そこで、どうしても強化が必要だったのである。

 実際、小野、稲田は日本代表に選ばれ、稲田7得点、小野5得点と大活躍する。ちなみに、相根、木暮も選ばれており、1得点、9得点を挙げている。この4人で、合計22得点、チーム全体が47得点であったから、半数近くを占めたことになる。サッポがいかにピヴォを重用したかがわかる。

 もう1人、注目の選手がいた。それは、稲葉洸太郎である。すでに、この三国志では、「森のくまさん」というチームで民間大会のピヴォチャンピオンズカップに優勝、MVPをもらうことで登場した。その副賞のブラジル留学に北原(のちに名古屋オーシャンス)と一緒に行ったが、その北原より先に日本代表に選ばれることとなった。なお、代表に選ばれた時の所属チームは、渋谷ユナイテッドというチームで東京都リーグ2位のチームであった。そこには、関東三国志を大きく変えたかも知れないドラマがあった。その話はのちに譲ることにする。

 通年リーグの必要性が叫ばれ、チームの合従連衡を繰り返しながら、リーグの乱立を経てここまで来た関東三国志登場人物達のみならず、日本のフットサルの悲願達成なるか、運命の第6回アジア選手権は、2004年4月16日からマカオにて開催される。

 お宝写真はというと、気は早いが結果はわかっているので、アジア選手権の写真にしよう。

 この写真は、準決勝ウズベキスタン戦に勝利し、あとはイランとの決勝戦を残すのみ、すなわち世界選手権(当時はワールドカップとは呼ばなかった)出場決定の時の写真である。最初はそれぞれが涙ながらに抱き合い、喜んでいたが、いつしか、日の丸の旗が持ち出され、そのまわりに選手全員が集まり、旗を上下に揺さぶってそれぞれが何かわからないが叫んでいる。苦節6年、クアラルンプール、バンコク、テヘラン、ジャカルタ、テヘランそして、ついにこのマカオの地で掴んだ悲願のワールドカップ出場、選手達は何を叫んでいたのだろうか。

※この連載は毎週水曜日・金曜日の2回更新予定です。

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