2015.09.30 Wed

Written by EDGE編集部

コラム

関東フットサル三国志/第6章「その5:サッポ監督の就任で日本代表に起きた4つの変化」

Fリーグができるまで、日本フットサルの頂点は間違いなく「関東」だった。その関東を軸に競技フットサルの歴史を振り返っていく当連載。昔からのファンはもちろん、フットサル観戦ビギナーや、Fリーグ以降にファンになった人には「最高の教科書」になるはずだ。
(文・木暮知彦/関東フットサルリーグ広報委員)

 前回紹介したエジプトでのピラミッドカップは、原田監督、サッポコーチであったが、このあと、11月に行われたタイランド5では、原田監督が辞任、サッポが来年の世界選手権を見据えて監督に就任することとなった。

 2003年11月に行われたタイランド5は日本代表にとって大きなターニングポイントとなる大会となった。タイランド5はタイのバンコクで開催された4カ国対抗の大会で、日本、ブラジル、ロシア、タイが参加した。リーグ1、2位で決勝戦、3、4位で3位決定戦を行うレギュレーションであった。

 ターニングポイントその1は、前述したように監督が原田からサッポに代わったことである。サッポは、守備の強化と攻撃の新たなバリエーション開発に着手し、日本代表に戦術的変化をもたらした。

 その2は、比嘉リカルドが帰化したことを受けて、代表に呼んだことである。比嘉リカルドは、のちにキャプテンとなり、サッポと運命をともにすることとなる。サッポとしては、日本人選手と自分との間のコミュニケーション役を期待したのであろう、長期に渡って比嘉を選ぶことになった。実というと、もう1人、ポルトガル語ができて、日本人選手とのコミュニケーションを円滑に図ることができる選手がいた。もし、彼が怪我をせずに、世界選手権に出場できていたら、もう少し違った結果が生まれたかも知れない。それは、プレデターの市原である。その話はのちのことになる。

 その3は、ピヴォを置く作戦を取り、木暮とのちには小野をピヴォに選んだことである。それまで日本は、ボックス型の守備から、攻撃はもっぱらカウンター狙いであったが、ピヴォを置く攻撃パターンが増え始めることとなった。

 その4は、カウンター攻撃には金山を多く使うようにしたことである。ピヴォに木暮、小野を配したことにより、2人ともピヴォからの落としやパスもできるため、金山の飛び出しがより有効になった。これまで、出場機会が少なかった木暮、金山の出場機会がこの大会を境に飛躍的に向上することとなった。また、小野ものちに大抜擢を受けることになる。

 結果はすぐに現れ、予選リーグはブラジルに2-5で敗れるものの、タイと0-0の引き分け、ロシアに6-2に勝利、予選リーグ2位となった。決勝は再びブラジルと対戦、2-7で敗れたが、ロシアに勝利したことは大きな収穫となった。

 以降、サッポは2008年ブラジルで行われた第6回の世界選手権(名称はワールドカップと改められる)まで指揮を執ることになるが、この時は、恐らく2004年の台湾で行われる世界選手権までと思っていたことであろう。結果論であるが、2回の世界選手権指揮は長かったかも知れない。結局、ピヴォ当ての次のバリエーションの開発、若手の人材開発にまでは至らなかった。

 お宝写真は、サッポが初めて監督として指揮を執り、飛躍的に出場機会を増やした金山と木暮の写真としよう。

タイランド52013

もう一つおまけに、タイ、バンコクのニミブットスタジアムの看板をお宝とする。このスタジアムはサッカーでは日本対北朝鮮の無観客試合で有名だが、すぐ隣の屋内体育館は、フットサルの日本代表が数多く戦った体育館でもあり、応援に来られた方も多いと思う。ちなみに、2000年5月の第2回アジア選手権から始まって、2010年のアジア遠征まで、実に5回、日本代表は戦っている。

※この連載は毎週水曜日・金曜日の2回更新予定です。

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