2015.09.16 Wed

Written by EDGE編集部

コラム

関東フットサル三国志/第6章「その1:Fリーグ設立のきっかけとなった日本代表ブラジル遠征」

Fリーグができるまで、日本フットサルの頂点は間違いなく「関東」だった。その関東を軸に競技フットサルの歴史を振り返っていく当連載。昔からのファンはもちろん、フットサル観戦ビギナーや、Fリーグ以降にファンになった人には「最高の教科書」になるはずだ。
(文・木暮知彦/関東フットサルリーグ広報委員)

 2003年1月15日、日本代表は、ついにブラジル遠征を敢行する。まさかにこのブラジル遠征がのちのFリーグ設立につながるとは誰も思わなかったが……。

 試合は、サンパウロ州サンベルナルド市の記念イベントとして組まれたもので、招待試合であった。サンベルナルド市はサンパウロ市の近郊に位置し、毎年この頃になると、市民のために大きなイベントを開催するという。なぜ、そのイベントに日本代表戦が組まれたのかは不明であるが、有難いことであった。

 日本のメンバーは、関東からはカスカベウの相根、前田、金山、ファイルフォックスの難波田、木暮、プレデターの市原、ゾットのゴールキーパー渡辺博之(のちにバルドラール浦安、現在はゾット)が選ばれた。関西からはマグの藤井、旭屋の松田和也、山蔦一弘、東海からは田原FCの和泉秀実(のちに田原FC監督、アグレミーナ浜松GM)、ゴールキーパー川原が選ばれた。監督は引き続き原田であった。

 ブラジルのメンバーは、フル代表で、トビアス、ファルカン、ベトン、レイトンなど錚々たるメンバーだった。日本人が多く住むサンパウロの土地柄、フル代表のせいもあってか、約7000人の観衆が集まり、大歓声の中で試合が行われた。

 日本代表のほとんどのメンバーは、プロ契約、武者修行、ツアーなどの形でブラジル経験があったから、日本代表としてブラジルに渡り、このような雰囲気の中で試合ができたことは感慨もひとしおだったに違いない。

 また、ブラジル代表と試合ができること自体、滅多にないことである。ちなみに、この時点で過去のブラジル代表戦はというと、1985年にスペインでの第2回世界大会で1-15、1988年のオーストラリアでの第3回世界大会で1-29、1996年のベルギーでのフラワートーナメントで1-13といった成績である。

 今回も結果は1-8の大敗であったが、日本選手達は、語弊があるかも知れないが試合を楽しんでいるように思えた。それは、負けていてもフットサルのボール回しの楽しさ、相手を欺いて点を取る楽しさを、ブラジル代表と共有している喜びみたいなものがあったからであろうか。実際、ブラジルの得点シーンは、サイド攻撃、スルーパス、ピヴォからの展開、強烈なトゥキックシュートなどフットサルのゴールはこうするものというエッセンスが詰まっていた。ちなみに、記念すべき日本代表の1得点は相根が決めた。

 試合結果もさることながら、この遠征がのちに大きな変化をもたらすことになった。それは、この遠征に現日本サッカー協会会長の大仁邦彌が帯同していたからである。大仁は、本場ブラジルでブラジル対日本戦に約7000人の大観衆が集まり、体育館を揺るがす熱狂に驚いた。帰国するとさっそく当時の川淵チェアマンに状況を報告、日本代表の強化を訴えるのであった。

 それから、しばらくして、川淵チェアマンはジーコに相談、ジーコの推薦でセルジオサッポの招聘が決まった。サッポは最初コーチとして就任、監督になるのは翌年の第6回のアジア選手権からであった。サッポは、フットサルブラジル代表、世界選手権優勝の経験の持ち主である。

 大仁は、こののちも日本代表戦に団長として帯同するとともに、フットサルの育成に力を注ぎ、Fリーグ設立に至るのであった。だいぶ先のことであるが……。

 さて、お宝写真は、この記念すべきブラジル代表戦の両チームの表彰の集合写真にしよう。錚々たるブラジル代表に混じって中央、ファイルカンの左から、難波田、前田、金山、市原、木暮、相根、藤井と続く。中央右のトビアスの下にはGK川原が映っている。そして、相根、藤井の下に大仁が映っている。

※この連載は毎週水曜日・金曜日の2回更新予定です。

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