2015.09.09 Wed

Written by EDGE編集部

コラム

関東フットサル三国志/第5章「その3:カスカベウに戻らなかった市原誉昭。プレデターと日本人初のプロ契約」

Fリーグができるまで、日本フットサルの頂点は間違いなく「関東」だった。その関東を軸に競技フットサルの歴史を振り返っていく当連載。昔からのファンはもちろん、フットサル観戦ビギナーや、Fリーグ以降にファンになった人には「最高の教科書」になるはずだ。
(文・木暮知彦/関東フットサルリーグ広報委員)

 話はずっと進んで、2002年11月、また、選手権の季節がやってきた。この年から、東京都の開催地枠が撤廃され、各都県の予選を勝ち抜いたチームが平等に関東予選を戦う仕組みとなった。東京都は、ベスト3位までが関東予選に出場できる。

 その東京都予選を制したのは、関東リーグで好調を維持していたカスカベウで、スーパーリーグで頭角を現すシャークスとの決勝をPK戦で下したものだった。3位決定戦はシャークスに敗れたファイルフォックスとカスカベウに敗れたフトウーロの戦いになり、ファイルフォックスが勝って関東予選進出を決めた。

 選手権予選直前までの関東リーグの成績は、最終節を残してカスカベウが8勝2分の負け無し勝ち点26で首位を走っていた。2位と3位は8勝2敗のファイルフォックス、フトゥーロで勝ち点24の2差であった。

 一方のスーパーリーグの選手権・都予選のあとの12月1日、第4節の結果であるが、カスカベウ、シャークスが3勝無敗で1位、2位となっている。なお、この節からイタリアにいた相根がカスカベウに戻り、日本復帰となった。

 このように通年リーグの成績が都予選の結果にも如実に現れていて、両雄が強さを見せていた。順風満帆の通年リーグのように思えたが、思わぬところで脆さを見せる事件が起きた。2002年12月7日に開催された関東予選になんとファイルフォックスが失格となり、出場できなくなったのである。

 前日にマネージャー・ミーティングが行われたのだが、これにファイルフォックスが欠席をしてしまうミスを犯したのだった。スタッフがまったく日を間違えていたのだという。これはむろん、選手の責任ではないが、当時のフットサルのチームの運営体制の弱点を表しているものといえよう。のちのことになるが、第7回の関東リーグでもロンドリーナが同様のミスを犯して、1年間不戦敗扱いになった事件があり、技術レベルは上がっても運営力は極めて脆弱であった。

 監督不在の課題も、リーグが発達する兆しを見せながらも大きく解決はしなかった。カスカベウはかねてより監督不在に悩まされていたが、ファイルフォックスもオスカーの退団により悩まされることとなった。

 ファイルフォックスの場合は、シーズンが始まって、のちにバルドラール浦安のゴールキーパーコーチとなる北野徹を監督に招聘する。北野は横浜マリノスジュニアユースに在籍していたことがあり、木村和司が日本代表監督のときにスタッフとして参加、そんな縁でフットサル界にかかわるようになっていた。ブラジルでゴールキーパー留学していた経験も持つ。

 余談になるが、難波田、木暮がブラジルで留学中に教えを受けた館山マリオ(のちに名古屋オーシャンズ、パサジイ大分監督)をファイルフォックスの監督に招聘する話があった。しかし、タイミングが合わず、館山はコーチのライセンスを取得するため、大学に通うことになった。それにしても、その後、Fリーグが設立されて、時期は別々だが、難波田、木暮、館山の3人が名古屋オーシャンズで再び縁があるなんて、当時は想像もつかなかった。

 一方、カスカベウも正式にコーチとして前川義信がベンチ入りすることになった。前川はカスカベウのスタッフとして活動していたが、勉強熱心でいつしかコーチに興味を持つようになった人物で東京都選抜監督、ミャンマー代表監督なども努めた。のちに湘南ベルマーレ監督にまでなった。しかし、2人とも絶対的な権限をもって采配を振るう監督かというとそうではなかった。

 実際、難波田、甲斐のカリスマ的選手のみならず、市原、前田、木暮など錚々たるメンバーを指揮することは難しい。そもそもフットサルには、監督の要求するプレーをいかに実現するか、それが選手の役割といった考えた方がサッカーほど浸透していなかった。

 恐らく、日本におけるフットサルが仲間からスタートした点がたぶんに影響しているのであろう。プロではないのでと言ってしまえばそれまでだが、選手も監督に従うとはどういうことか日本代表クラスの選手ですら難しい問題である。今でも仲良しな仲間なのか、監督と選手の緊張関係なのか、フットサルはその切り分けが進んでいない。結果論かも知れないが、その年のファイルフォックスのリーグ成績は4位に終わっている。

 次に選手との契約問題も、当時は、リーグの脆さであった。

 すでに紹介したとおり、府中水元クラブとフトゥーロが合体、チーム名を変更してフトゥーロでチームを存続した例、スーパーリーグの開幕戦、ガロから大量移籍したシャークスがガロを4-0で破った例など、プロならば通常あり得ない移籍が起きていた。もともと選手権が立ち上がった頃は、「日本一になれるかもしれない」というノリで臨時チームが出来上がり、その延長戦上で移籍は日常茶飯事に行われていたのである。

 しかし、通年リーグができると、基本的にはチームは継続する前提でないと成り立たない。したがって、チームを継続するためのルールが必要であった。のちに前年登録メンバーの過半数が翌年も存在していることとするルールが出来たが、当時は許されていることであった。

 むろん、ルールばかりではない。チームの運営母体、組織をはっきりさせて入団、退団に関する契約という概念を持ち込む必要があった。皮肉なことにガロは比較的しっかりしていたと聞くが、本格的にチームと選手との間で報酬もともなう契約を交わしはじめたのは、プレデターであり、アマフーザから移籍した市原であった。

 プレデターは3ヶ月前の11月、選手権の千葉予選で敗退、唯一この年だけであったが、定番だった千葉の盟主を明け渡すこととなり、チーム改革に着手していた。今にして思えば、この頃からGMの塩谷はいずれ設立されるであろうFリーグ参入を目論んでいたのかもしれない。

 一方、市原は1年間、ブラジルでプロ生活を送った経験から、日本に戻るにあたってはプロにこだわり、これを実践するプレデターを移籍先に選んだ。両者の思いが一致した契約であった。この結果、2003年1月26日開催のスーパーリーグ第5節に市原は復帰デビュー戦を果たすことになる。

 ということで、お宝写真は、今までアマチュアだった日本のフットサル界にプロの概念を持ち込んだ市原にしょう。市原は、もともとサッカーの三浦知良にあこがれて中学時代から単身、ブラジルに渡り、修行を重ね、ブラジルサッカーでマイナーとはいえ、プロ経験を積んだ身である。それが、日本に戻り、カスカベウでフットサルを経験、日本代表になって、今度はブラジルに戻ってフットサルでプロ契約、この貴重な経験を日本のフットサル界に生かしたい強い想いがあったのだと思う。古巣のカスカベウには戻らなかった。実際、このあと、日本代表のキャプテンになって、夢のフットサルワールドカップ出場まであと一歩まで漕ぎつけることになるのだが……。

※この連載は毎週水曜日・金曜日の2回更新予定です。

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