2015.08.21 Fri

Written by EDGE編集部

コラム

関東フットサル三国志/第4章「その9:フットサルの“サポーター”はスーパーリーグから始まった」

Fリーグができるまで、日本フットサルの頂点は間違いなく「関東」だった。その関東を軸に競技フットサルの歴史を振り返っていく当連載。昔からのファンはもちろん、フットサル観戦ビギナーや、Fリーグ以降にファンになった人には「最高の教科書」になるはずだ。
(文・木暮知彦/関東フットサルリーグ広報委員)

 乱立する通年リーグの中で注目を集めたリーグというと、言うまでもなく今でこそ伝説となったスーパーリーグである。ここでは2002年1月27日に2シーズン目を終えたスーパーリーグがもたらしたものについて考えてみたい。

 スーパーリーグはもともと民間リーグであり、制約もないことからメディアへの露出に注力をした。設立にあたっては、雑誌ピヴォの冠を付ける話もあったくらいで、そこには戦略があった。

 一つには、素朴な話、観客が入れば試合が盛り上がり、選手のレベルアップにつながるからである。そのためには、フットサルのルールはもちろんのこと、チーム情報、選手情報、会場情報など情報を観客にいかに伝えるかメディアの役割が重要であった。

 二つ目には、スポンサードである。リーグ運営にはお金がかかる。したがって、リーグにスポンサーが付けば、運営はより充実するし、チームの供出金の負担も軽減できる。

 三つ目は、最終的にはプロリーグ化である。選手がフットサルで飯が食えるようになるのは当然として、子供達にも夢を与え、フットサルへの参入間口が広がる効果が期待できる。

 当たり前といえば当たり前のことを書いているだけであるが、フットサルというスポーツが2001年~2002年の発展途上にある中で、メディアへの取り組みを強化したことは画期的な試みであった。それは、今のFリーグがいろいろな面で苦しんでいることからもわかる。

 それでは、当時のフットサル人口はどのくらいだったかというと、まず、観客というカテゴリーはなかった。競技人口としては、原田理人(日本フットサル連盟理事、のちにフットサル日本代表監督)が2003年2月発売の「月間レジャー産業」という雑誌に「活性化するフットサルマーケットの動向」で推計を試みている。民間の大会開催数から割り出したものであるが、これによれば5万6千人という控え目な数字になっている。(推計は難しいという注釈がある。)

 2003年にサッカー協会が個人登録制度を開始したが、この時の登録数が約10万人である。それが、2004年10月22日付けのスポーツ報知では、信憑性はともかく競技人口70万人になっている。民間施設の数で見ると、2001年に136施設あったものが、2004年には451施設と増加、3年間で3,3倍となっている。(日本フットサル施設連盟調べ)

 それだけ、右肩上がりで当時は増えていったわけであるが、それにしても2001年~2002年の段階から、「する」ばかりでなく「見る」へチャレンジしたことは評価に値する。

 実際、第2回になると、日刊編集センター(日刊スポーツの子会社)が専門サイトを立ち上げ、クールオンライン(地域の情報サイト、のちに楽天が吸収)が地域の情報として取り上げるなど、インターネットではあるが、メディアへの露出を増やしていった。(それまではフットサルネットと雑誌ピヴォだけであった)また、テレビでも、テレビ朝日が「GET Sports」で特集を組むなど、スーパーリーグ運営事務局の努力が実った結果となっている。

 それでも、当時の観客動員数は、1試合で400人から500人、4試合の延べで1200人程度であったから、「見るスポーツ」に進化するには絶対的な競技人口がまだまだ少ないか、見るためのコンテンツに何かが欠けているのか、課題は多い。

 取り組みが早すぎたのか、のちに始まるリーグの統一とともに、日刊スポーツもクールオンラインもフットサルからは撤退してしまった。インターネットメディアは、その後、ブログやツイッター、動画コンテンツの配信へと進歩していくが、技術的にもまだ早すぎたのかも知れない。

 しかしながら、リーグが消滅したのちも脈々と継続する産物をスーパーリーグはもたらした。それはサポーター組織である。

 Jリーグでは当たり前のサポーター組織は、フットサル界においては、スーパーリーグ出現以前は存在していなかった。むろん、選手権等の大会だけの応援するファンは存在していたが、リーグ戦があるたびに、観客席で横断幕を掲げ、起立し、組織的に声を上げて応援するグループが出現したのは、スーパーリーグがきっかけである。

 そして、その先鞭をつけたのはガロの応援団であった。ガロはすでに紹介したとおり、東京のサッカーチーム名門のエリースFCにいた横田と河上が設立したフットサルチームで、三国志の第3勢力として確固たる地位を築いていた。横田は、持ち前の行動力から、トップチームばかりでなく、レディース、U-22、U-18、U15などのチームを立ち上げるとともに、フットサル教室を開くなど、フットサルの普及に貢献した。また、彼の書くブログも有名で、熱いフットサル論を展開、人気を博していた。

 一方、ガロの応援団を立ち上げたトヨ(ニックネーム)は当時エンジョイやミックスチームなどでフットサルを楽しんでいた。そこに、たまたま来ていた横田がミックスチームの運営方法などを聞くなどで話すようになり、横田がスーパーリーグを見に来るよう誘ったのだという。それは、スーパーリーグの最初のシーズンの第2節、東京ベイフットサルクラブだった。

 トヨは、そこで繰り広げられる熱い戦いにすっかり魅了された。そして、フットサル界には応援団がまだいないことから、フットサル界にも、Jリーグなみの、かつ、フットサルらしい応援スタイルを確立しようと思い、サポーター組織を立ち上げる決意をした。

 その仲間に加わったのがワカン(ニックネーム)だった。ワカンは、FC東京の応援団のメンバーだったが、たまたま、横田が開いているフットサル教室に参加、知り合いになり、ガロの応援団に加わることになった。

 その後、応援団の輪が広がり、ガロの象徴である南十字星のロゴをあしらった大きな弾幕を背に声をあげての応援は、一躍有名になった。今でこそ、ファイルフォックス、カスカベウ、府中アスレティック、フトゥーロ、フウガなど、チームカラーを全面に出した弾幕とそれぞれ工夫を凝らした応援スタイルが定着、観客席に花を添える存在となったが、当時としては体育館で行われるフットサルでもJリーグなみの応援ができることが証明され、それは画期的であった。

 先鞭を付けたガロに刺激され、その後、さまざまなチームでサポーター組織が立ち上がり、関東リーグ、Fリーグへと受け継がれるのであるが、応援がブレイクするのは、台北での世界選手権まで待たねばならなかった。それは、後日に記すことにする。

 考えてみれば、サポーター組織も、「見るスポーツ」のコンテンツとしては重要な要素で、スーパーリーグは使命を終えて消滅することになったが、サポーター組織を残した功績は大きい。リーグの表紙は変わっても、生身(なまみ)の選手、サポーター組織は脈々と受け継がれるものであることを強く感ずる次第である。

 ということでお宝写真は、サポーター組織の弾幕にしよう。すべては掲載できないが、当時を思い出して欲しい。どのチームの弾幕か全て当てれば、これまた通である。

※この連載は毎週水曜日・金曜日の2回更新予定です。

関東フットサル三国志/バックナンバー

◀︎前の記事 トップ ▶︎次の記事