2015.07.15 Wed

Written by EDGE編集部

コラム

関東フットサル三国志/第3章「その7:伝説のリーグ『スーパーリーグ』が誕生!」

Fリーグができるまで、日本フットサルの頂点は間違いなく「関東」だった。その関東を軸に競技フットサルの歴史を振り返っていく当連載。昔からのファンはもちろん、フットサル観戦ビギナーや、Fリーグ以降にファンになった人には「最高の教科書」になるはずだ。
(文・木暮知彦/関東フットサルリーグ広報委員)

 2000年8月、東京では府中水元クラブから府中アスレティックが分離独立をする。もともと府中水元クラブは本来サッカー主体のクラブであったが、フットサル専従とするため、中村兄弟を中心に独立したのである。したがって、府中アスレティックが関東リーグにお目見えするのは、カスカベウと同じく東京都リーグを経なくてはならず第4回からとなった。

 2000年10月8日、いよいよ関東リーグにさきがけて関東の強豪チームが集まる通年のフットサルリーグ、スーパーリーグが立ち上がった。むろん、サッカー協会等の公認ではない民間のリーグである。

 設立に同意、参加したチームは独立したロンドリーナと府中アスレティック、カスカベウ、ガロ、ウイニングドッグ、プレデターの強豪チームばかりであった。

 運営は、これら参加したチームで構成するスーパーリーグ運営実行委員会で、リーグの顔には甲斐がなった。また、実質、運営を切り盛りする事務局にはプレデター塩谷、府中アスレティック中村が担当した。

 また、フットサルの専門雑誌フットサルマガジンピヴォとフットサルポータルサイトのフットサルネットが協力することになった。

 コンセプトは最初にも述べたとおり、競技フットサルのレベルアップであり、選手の育成、最終的にはプロリーグ設立環境の整備であった。これは、フットサルにのめり込んでいった選手達の素朴な夢であり、目標であった。これを選手達自らで達成しようというわけである。今でこそFリーグがあるが、当初からメディアを巻き込み、集客に努めるなど運営にもアイデアを凝らすなど協会主導でない自由な運営スタイルを試みたものである。

 当時はまだ、室内体育館の確保は難しく、開幕戦は、残念ながら室内ではなく、ミズノフットサルプラザ藤沢の人工芝で行われたが、特設の観客スタンドを設け、売店を出したり、タレントチームのエキジビジョンマッチ(フットサル好きのタレント、袴田吉彦の参加)を入れるなど、見るスポーツを意識したものとなった。

 なお、これを機会にカスカベウはバンフスポーツの協力を得て、クラブチーム化のコンセプトも打ち出している。名称もCASCAVEL BANFF SPORTSと改めた。以降、プレデター、府中アスレティックなどがクラブの法人化を模索する動きが出て来たことも進歩であった。もっとも、Fリーグと連動して具体的になるにはまだまだ時間が必要であった。

 ところで、賢明な読者ならおわかりであろう。ファイルフォックスが参加していないのである。設立にあたって関係者が勧誘したが、いずれ関東リーグが通年リーグになる想定のなかで公式リーグに競合するリーグに参加するのはいかがなものかということで賛同は得られなかったという。2年連続優勝のプライドが邪魔をしたのかも知れない。しかし、この結果、またしてもファイルフォックスとカスカベウの直接対決は選手権予選まで待たねばならなかった。

 さて、注目の優勝の行方であるが、そのカスカベウが、最終試合、最下位のガロに勝つか引き分ければ優勝という状況で残り1分まで3-3のイーブンであった。またしても勝てないカスカベウかと思われたその時、パワープレーに出た市原がハーフライン付近から糸を引くようなシュート一閃、これが決まって4-3、そのまま勝利して優勝という劇的な幕切れで伝説のリーグの初回は終わった。そして、それは、カスカベウの逆襲の始まりでもあった。

 今回のお宝写真は、スーパーリーグのムック本(毎日ムック・フットサルのすすめ、発行株式会社日刊企画、発売毎日新聞社 2001年8月30日発行)の表紙である。残念ながら、初回にはムック本はなく、翌年の2001年版である。しかし、当時としては画期的なもので、これを持っている人は通であること間違いない。

 フットサルの魅力を語り、2001年の出場チームの紹介、それぞれのチームのキープレーヤーのプロフィル、インタビュー、関係者の熱い応援メッセージなど、フットサルを世に出そう、盛り上げようという熱気が感じられる全113ページの力作である。

※この連載は毎週水曜日・金曜日の2回更新予定です。

関東フットサル三国志/バックナンバー

◀︎前の記事 トップ ▶︎次の記事