2015.07.03 Fri

Written by EDGE編集部

コラム

関東フットサル三国志/第3章「その4:なぜ“バンコクの悲劇”は起こったのか?」

Fリーグができるまで、日本フットサルの頂点は間違いなく「関東」だった。その関東を軸に競技フットサルの歴史を振り返っていく当連載。昔からのファンはもちろん、フットサル観戦ビギナーや、Fリーグ以降にファンになった人には「最高の教科書」になるはずだ。
(文・木暮知彦/関東フットサルリーグ広報委員)

世界選手権出場を逃した“バンコクの悲劇”については前回の記事を参照

 アマチュア、経験不足、フィジカル不足といえばそれまでであるが、前半リードしながらあと一歩で世界選手権を後半戦で逃したこと、昨年の戦いぶりからなんとなく行けそうな気分があったことなどから、大会終了後、敗因分析や批判などさまざまな議論が巻き起こった。

 実際、2000年5月15日、取材に行ったスポーツカメラマン六川則夫(のちもイランで行われた第3回アジア選手権をはじめ、数々のフットサル国際試合を取材)を迎えて、サポティスタ主催神田サッカーナイトシリーズの一つとして20人程度の関係者、一般参加も含めて報告会、討論会が行われた。また、フットサル専門雑誌ピヴォでも座談が組まれ、総括記事が書かれた。

 当時、よく言われたことは、プロ意識、気持ちの欠如と競技フットサルの置かれた環境問題であった。プロ意識でいえば,街のフットサル好き、ちょっとうまいアンチャンが日本代表になっただけとか、アスリートがタバコを吸っていいのかなどといったものもあった。

 環境問題でいえば、企業の後ろ盾があるわけでもなく、自らの生活を犠牲にして、練習場の確保から、大会のセッティング、技術、戦術の勉強、取得まですべて選手自らが自分でやらなければならない状況で勝つのは難しいと言ったものであった。要は、アマチュアであるということである。

 しかし、今も一部のチームあるいは選手を除いてアマチュアといえばアマチュアなので、道半ばと言える。また、2流のサッカーチームに敗れたという意見もあった。確かに、当時はアジアではフットサルリーグ自体開催されているところは少なく、サッカーチームが出場している国も多かった。

 さらに、その議論が発展して、ならばJリーガーを起用すべきではないかといったJリーガー待望論も出て来た。この待望論は、今では影を潜めたが、丁度、Jリーガーのセカンドライフが問題になっていた時期と重なったこともあって、まことしやかに議論された。

 実際、次のアジア選手権の代表選考はどちらかというと元Jリーガーを起用する方向に振れるのであった。

 しかし、今にして思えば世界選手権出場を逃した原因は単純に人数が少ないところに不運が重なったものではなかったか。

 当時は予算がなかったせいか帯同メンバーはきっちりベンチ入りの12名、その中でゴールキーパーに3人を割いた点である。したがって、フィールドは9名で、暑いタイで戦うには厳しかった。不運なことに、難波田のケガ、藤井のレッドカード退場のアクシデントが起きてしまった。せめてフィールドプレーヤーの数を増やしていればと悔やまれる。

 実は、予算上12名帯同か14名帯同かなかなか決まらなかったらしい。ひとつには直前までラモス瑠偉が選考されていたらしく、その枠を取っていたとも考えられるが、結局ラモス瑠偉はケガでバンコクには来なかった。予算が当時のフットサルの位置付けを物語るものであろう。ちなみに第3回アジア選手権からは14名帯同となった。

 そして、根本的には、当時は通年リーグもなければ、長期に渡って強化を図る専従監督もいないことが世界選手権に行けなかった根本原因である。サッカーが“ドーハの悲劇”でまだ日本は世界に行くのは早いと運命付けられたのと同様、フットサルも“バンコクの悲劇”でまだ世界に行くのは早いという運命だったのかも知れない。

 実際、今にして思えばまだ早いと言わざるを得ない環境であった。むろん、今だから言える話であるが、恐らく、かりにグアテマラに行けたとしても結果は見に見えていたし、大きな変化は何も起こらなかったであろう。

 ところで、その年の12月3日からグアテマラで開催された第4回FIFAフットサル世界選手権は、スペインがブラジルの3連覇を阻止、初優勝を飾って幕を閉じた。

 準優勝はブラジル、3位ポルトガル、4位ロシアであった。また、アジア勢は、イラン、オーストラリア、タイが出場したが、いずれも予選敗退であった。ちなみに大会得点王には、アトレチコミネイロの衝撃で紹介したマヌエルトビアスが19得点で獲得した。

 さて、お宝写真はというと普通の集合写真では面白くないので、世界選手権の選手証とはどんなものかを紹介しよう。といっても今回は逃したので、あるはずもなく、4年後の台北大会の時の選手証の写真を木暮より提供してもらった。全ては、この選手証を得るために、闘いはある。

※この連載は毎週水曜日・金曜日の2回更新予定です。

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