2015.05.25 Mon

Written by EDGE編集部

コラム

関東フットサル三国志/第2章「その3:“町のアンちゃんたち”と呼ばれていたフットサル日本代表」

Fリーグができるまで、日本フットサルの頂点は間違いなく「関東」だった。その関東を軸に競技フットサルの歴史を振り返っていく当連載。昔からのファンはもちろん、フットサル観戦ビギナーや、Fリーグ以降にファンになった人には「最高の教科書」になるはずだ。
(文・木暮知彦/関東フットサルリーグ広報委員)

 ここで、あらためてアジア選手権がフットサル界にどのような影響を及ぼしたのか振り返ってみよう。

 まず、フットサルの原点は「する」にあるため、エンジョイ志向層のいわゆる「する」フットサルに対する影響力はどうであろうか。エンジョイ層の増加につながったのだろうか。

 残念ながら、当時は日本代表の試合が始まったばかりなので望むべくもないが、2回、3回と開催が進んで今となってもフットサル施設関係者の話を聞くと厳しいという。

 簡単にいえば、エンジョイ志向層の多くは、見るのはサッカー、するのはフットサルと割り切っており、サッカーで刺激を受けて「する」ことはあっても、フットサル日本代表の試合には無関心が多いという。実際、2002年のワールドカップ日韓共催の頃、フットサル施設は飛躍的に増加した。

 次に、「見る」フットサルの位置付けはどうであったろうか。サッカーでは、日本代表戦を数多く日本で開催し、これが「見る」サッカー人口を増やしてきた。しかし、フットサルは残念ながら日本での開催が少ない。

 むろん、これも第1回、第2回の当時で論ずることは早すぎるが、今となっても日本で開催されるのは年間でアジア選手権前の壮行試合くらいのものである。残念ながら「見る」フットサル」の人口増にも日本代表はなかなかつながっていないのが現状である。

 では、当時の日本代表はどんなインパクトをもたらしたのだろうか。率直にいえば、早く簡単に日本代表になれる機会を選手に与えたということである。黎明期のマイナースポーツがオリンピック種目になり、オリンピック選手になれることがエキスパートを生み出す原動力になる理屈と同じである。

 「簡単に」というと当時の日本代表選手には失礼に当たるかもしれないが、少なくともサッカーの競技志向プレーヤー人口の多さに比べると、圧倒的にフットサルのそれは少なかったので確率的に可能性が高いといえる。

 そのインパクトは大きく、なんとなく遊びやサッカーの延長線上でフットサルを見ていた選手達を専門フットサルプレーヤーへと駆り立てたのであった。この原動力は図りしれないものがあり、現在のFリーグにつながったことは間違いない。

 もっとも、サッカーのように学校あるいは企業の厳しいピラミッド構造の淘汰の仕組みによってふるいにかけられて選出されたわけではないし、無論プロでもないから、サッカーを見てきた世間一般からすると、戦いぶりやモチベーションに物足りない印象を受ける。

 この大会は世界選手権がかかっていなかったので結果が4位の批判も少なかったが、次の大会では、簡単に日本代表になれてしまったかのように言われ、選手のモチベーションに批判が集中するのであった。もっとも、まだ全国リーグすらない状況でプロのJリーグと比べられてもといったものであったが……。

 今回のお宝写真は、暗中模索状態から第1回アジア選手権に参加、アジアの大きな壁、常勝イランに何度となく跳ね返されながら、ようやくイランの8連覇をストップ、優勝を飾ったときの写真である。時は、2006年5月、場所はウズベキスタン、タシュケントの地であった。

 奇しくも、この選手権優勝の1か月前に全国リーグ設立が発表され、秋には参加クラブの選考、翌年発足という年でもあった。また、その後のFリーグ常勝となった名古屋オーシャンズの母体大洋薬品バンフも発足した。

 このように、前述した「見る」については課題を残すものの、アジア選手権の日本の競技フットサルに与えた影響は大きい。

 前回コラムの写真と今回の写真は、第2回選手権ではバンコクの悲劇と言われ、「町のフットサル好きのアンちゃんが日本代表になれただけ」と揶揄されたことから脱したことを示すものと言っても過言ではない。

※この連載は毎週水曜日・金曜日の2回更新予定です。

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