2015.04.28 Tue

Written by EDGE編集部

コラム

関東フットサル三国志/第1章「その7:なぜ府中は“フットサルの街”になったのか?」

Fリーグができるまで、日本フットサルの頂点は間違いなく「関東」だった。その関東を軸に競技フットサルの歴史を振り返っていく当連載。昔からのファンはもちろん、フットサル観戦ビギナーや、Fリーグ以降にファンになった人には「最高の教科書」になるはずだ。
(文・木暮知彦/関東フットサルリーグ広報委員)

 1998年11月、第4回選手権の東京都予選が始まる。そこには、すでに選手権優勝経験の府中水元クラブ、4位経験の小金井ジュール、昨年東京都予選ベスト8の井の頭くな、初出場のファイルフォックス、ウイニングドッグ、ガロ、目黒FCらのチームが出場している。

 同時に神奈川県予選もはじまり、神奈川県予選にはこれまた初出場のエスポルチ藤沢が本命で出場している。

 ここで少し、三国志の2強、ファイルフォックスとエスポルチ藤沢のちのカスカベウを中心とした関東の勢力図について考察してみよう。2強および派生チームは、東京の府中、調布あたりと神奈川の川崎、横浜、藤沢あたりに拠点を構えることになるが、これらの拠点は当時のフットサル情報ネットワークと密接に関係していて、最終的にはFリーグの勢力地図につながっている。

 まずは、府中市であるが、ここには府中水元クラブを発祥として、紆余屈折を経て、現在はFリーグに府中アスレティック、関東リーグのファイルフォックス、フトゥーロへと発展していった。一方、川崎、横浜、藤沢地域であるがアズーを発祥として、同じく紆余屈折を経ながら、カスカベウ、エスポルチ藤沢、ウイニングドッグ、ロンドリーナなどにつながり、現在は、Fリーグのペスカドーラ町田、湘南ベルマーレ、関東リーグのロンドリーナ(湘南ベルマーレの下部組織)へと発展している。実にFリーグが3クラブ、関東リーグが3チームの勢力図へと発展したことになる。今回は趣向を変えて、その地政学的分析のコラムである。

 フットサルは、スペースがない、ゴールが狭い、室内の水平な床面でボールは比較的正確に滑るなどの特性から、空間(スペース)と時間(タイミング)をどうコントロールするか、極めて知的なスポーツである。したがって、プレーヤーは上手くなるためには情報や知識が必要となる。結果、情報源、知識源に必然的にプレーヤーは集まってくる。そこが府中市である。

 では、なぜ、府中がフットサルの情報、知識の供給源になり得たのだろうか。それは、フットサルの発祥ブラジルから日本に定住するようになった日系ブラジル人と府中のサロンフットボールの結びつきが出発点といっても過言ではない。

 まず、日系ブラジル人の歴史であるが、選手権が始まった6年前の1990年に入国管理法が改正され、日系3世まで就労可能な地位が与えられようになった。この結果、ブラジル、ペルー等の中南米の日系人の入国が容易になり、来日者数が飛躍的に増加したのである。そして、労働力の受け入れ先としては、製造業の工場が中心となり、北関東地方、甲信越地方の機械、精密工場、東海地方の組み立て工場などに日系ブラジル人が多く定住するようになった。

 ちなみに、2009年の在日ブラジル人の居住人口は、愛知県6万7千人、静岡県4万3千人、三重県1万9千人、群馬1万5千人となっている。いまでこそ、東京都は4千400人だが、当時は、東京・府中市は東芝、NECなどの工場全盛時代で、それなりに多くの日系ブラジル人が働いていた。参考までに群馬、愛知の日系ブラジル人も日本のフットサル発展に大きく貢献した。

 一方、府中のフットサルの歴史であるが、驚くことに1986年頃つまり1990年の入国管理法改正の4年前、1996年第1回の選手権開催の10年前に、第1回の府中フットサル大会が開催されているほど、フットサル(当時はサロンフットボール)が盛んだった。ファイルフォックスの現松村栄寿コーチの話によると、松村がまだ23か24歳の頃(恐らく1983年から84年頃)、少年サッカーチームのエルマーズ(1977年設立)のコーチ達が夜、小学校の体育館でボールを蹴ることから始まったそうである。

 その頃はそれがサロンフットボールという意識すらなく、ボールもサッカーボールの空気を抜いて使ったとのことであるが、それがきっかけで木曜サロンという名前で毎週木曜日にサロンフットボールの集まりが始まった。それからしばらくして、最初は府中で働く日系ブラジル人は日系ブラジル人だけで大会をやっていたのだが、一緒にやろうということになり、1986年に第1回の府中フットサル大会(当時はサロンフットボール大会)が開催された。このことは、府中アスレティックゼネラルマネージャーの中村恭平も、あるインタビューで、中村が高校の頃に、その第1回サロンフットボールに出場したと語っている。

 このように、府中は日系ブラジル人と日本のサロンフットボールが結びついたことで日本のフットサルの源流といえなくもないが、その象徴的なスポットが府中市にある。それは「とよしまスポーツ店」である。今でこそ、フットサル専門用品の調達には困らないが、当時はペナルティ、トッパー、アンブロなどのフットサルシューズをいろいろ選べる店を探すのは苦労したものだ。しかし、ここは店主の豊嶋文明が自らブラジルへ行って仕入れるなど商品も豊富に揃っている。

 また、自ら府中市のフットサル協会の事務局長を勤め、日系ブラジル人をブラジルから呼んだり、逆にフットサル留学を斡旋したりと日本とブラジルのフットサル人材の交流にも力を注いだ。そんなわけで、自然と選手は遠くても足を運び、シューズを求めたり、情報を仕入れたりしたものである。

 すでに紹介したチームのほとんどの選手、一度はとよしまスポーツを訪問したのではないだろうか。また、エスポルチ藤沢の大塚もさかんに出入りしており、すでに紹介した中村5兄弟の次男、中村恭平との交流を深め、オスカーが一時期アズーに参加したきっかけにもなっている。実際、中村と大塚はこの頃エフエフアトリエなるフットサル大会の企画・運営会社を設立、フットサルの普及に努めたこともあった。

 こうして、府中の情報、知識は大塚を介して横浜、藤沢の方にも伝播していった。しかし、情報、知識があっても基礎の技術を持つ選手がいなければ発展はない。そこには別の要因があるはずだ。これについては、次回のお楽しみとしよう。

 さて、今回のお宝写真は、関東フットサル三国志の源流ともいうべき府中それも中村兄弟の写真で、第2回選手権で府中水元クラブが優勝したときのものである(向かって左から四男俊仁、次男恭平、三男鞁島三郎)。

 俊仁は、1999年開催の第1回アジア選手権の日本代表、恭平は現在、アスレティックのゼネラルマネージャーであると同時にサッカー協会フットサル委員会副委員長としてフットサル界を牽引、三郎は最近までアスレティックのコーチを務めるなどフットサル一家である。ちなみに、中村5兄弟(上記3人に加えて長兄の文俊、長女の夫)は踊るスーパーファミリーズを結成、1996年の日刊スポーツ新聞社主催の全国大会規模のフットサル大会に優勝するなど、全国に名を馳せた。

※この連載は毎週水曜日・金曜日の2回更新予定です。

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