2015.04.01 Wed

Written by EDGE編集部

コラム

関東フットサル三国志/第1章「その3:伝説のチーム、AZUL(アズー)」

写真:ストライカーDX編集部

Fリーグができるまで、日本フットサルの頂点は間違いなく「関東」だった。その関東を軸に競技フットサルの歴史を振り返っていく当連載。昔からのファンはもちろん、フットサル観戦ビギナーや、Fリーグ以降にファンになった人には「最高の教科書」になるはずだ。
(文・木暮知彦/関東フットサルリーグ広報委員)

 1996年夏、のちにカスカベウ、ペスカドーラ町田の甲斐修侍はプロサッカーを目指し、Jリーグ球団のトライアルに挑戦したが、思うような結果を得られないで悩んでいた。そんなとき、サッカーコーチの広山晴士(元ヴェルディ所属のちに「ドリブルで1対1に勝つ」などのテクニック本の著者)から一本の電話が入った。それは山中湖にフットサルコート(山中湖スポーツセンター)がオープンするので、そのオープニング記念大会に一緒に参加しないかというものであった。甲斐と広山は中学時代のトレセン仲間である。この大会でフットサルに興味を持った甲斐は、そのままこのコートのオーナーの薦めもあって山中湖スポーツセンターに勤めることとなった。

 1996年末になると、甲斐と広山は甲斐の関西時代のチームメイトの安田和彦(のちにカスカベウ関西)、サッカーで親交のあった黒岩文幸(のちにIPD FC)らを誘って、アズーを結成した。幸い、山中湖スポーツセンターの支援も受けることができた。

 関東フットサル三国志の1強カスカベウの前身の誕生である。しかし、このチームが脚光を浴びるにはまだ時間を要し、府中水元クラブに1年の長があった。

 余談になるが、当時山中湖はフットサルのメッカと呼ばれたことがあった。というのも、関東とは言えフットサル施設が今ほど多くなく、泊まりがけでフットサル三昧をするには絶好のロケーションだったこと、のちになるが全国規模の民間大会として有名なFDCカップの決勝大会が同コートで行われたことなどによる。FDCカップの模様はサッカーダイジェスト内のコーナー「フットサルダイジェストクラブ」に掲載されるので、フットサル愛好家チームにとって励みとなる大会であった。

 ちなみに、1996年頃の民間施設数であるが、日本フットサル施設連盟(民間施設の団体)調べによると、累計で41施設しかなかった。すでに今では600施設を超えているので、10%に満たない時代で、まさに黎明期の時代であった。(日本フットサル施設連盟は2003年4月に設立されている。)

 明けて、1997年2月、第2回の選手権が開催された。第2回から日産自動車がスポンサーに付き、「NISAAN CUP」の冠が付くことになった。冠は第4回まで続いた。

 第1回選手権でサッカーチームに苦杯した府中水元クラブは1年の準備が実り、決勝に進む。相手は再び企業サッカーチーム三菱黒崎フットボールクラブだ。しかし今回はこれを見事に破り、念願の優勝を果たす。そのフットサルは、他のチームがサッカーの域を出なかったのに対して、戦術、技術ともこれがフットサルだと全国に知らしめ、より多くのチームを選手権挑戦へと促したのであった。

 その最右翼がアズーで、府中水元クラブのフットサルを見て、本格的にフットサルに取り組むことを決意、チーム強化に乗り出した。これには大塚和弘が大きな役割を果たす。大塚は、当時、フットサル大会の運営、フットサルの指導など藤沢を拠点に活動しており、山中湖スポーツセンターで開催した大会で甲斐と出会うこととなった。

 大塚はブラジルのフットサル事情に詳しく、人脈も多かったことから、府中市で働く日系ブラジル人眞境名オスカー(のちにファイルフォックス設立)を紹介、コーチ兼選手として招き入れた。また、自らも監督をすることとなった。さらには黒岩とサッカー社会人リーグ九曜クラブで一緒だった相根澄(のちにカスカベウ)、関野淳太(のちにロンドリーナ、ペスカドール町田監督)、ゴールキーパーでは金澤信二(のちに千葉のNAC)などがメンバーに加わった。

※この連載は毎週水曜日・金曜日の2回更新予定です。

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