2016.09.30 Fri

Written by EDGE編集部

コラム

関東フットサル三国志/第15章「その7:藤井健太、引退。関西の巨星がフットサル界に刻んだ偉大な足跡」

Fリーグができるまで、日本フットサルの頂点は間違いなく「関東」だった。その関東を軸に競技フットサルの歴史を振り返っていく当連載。昔からのファンはもちろん、フットサル観戦ビギナーや、Fリーグ以降にファンになった人には「最高の教科書」になるはずだ。
(文・木暮知彦/関東フットサルリーグ広報委員)

No.8の引退

 名古屋の4連覇が決まった2011年1月16日の約1ヶ月後、2月11日に競技フットサルに大きな足跡を残した選手の引退が発表された。それは背番号8で有名な藤井健太である。

 藤井は、もともと関西の出身であるが、関東とは縁が深く、最初はライバルとして、最後は、関東では欠かせない存在となった。むろん関東のみならず、日本の競技フットサルの牽引役としても活躍、サッポ監督時代の最後の日本代表キャプテンであった。したがって、本三国志にも数多く登場している。

 まず、第1章チーム勃発その2「府中水元クラブと藤井健太」で、1996年の第1回選手権で、府中水元クラブのライバルとして登場している。府中水元クラブは、サッカー技術を主体としたNTT九州サッカー部(のちのJ2ロアッソ熊本)に予選で敗退、その時優勝した体育系専門学校ルネス学園甲賀サッカークラブとは対戦すら出来なかった。藤井はそのルネス学園の学生であった。そして、府中水元クラブは、府中アスレティック、ファイルフォックス、フトウーロなどのチームの源流となったチームである。

 そして、その活躍が認められて第3回世界選手権のアジア予選(アジア選手権の前身)の日本代表にフトウーロの上村信之介とともに選ばれている。恐らく、これが藤井健太をフットサルへと導いた原点であろう。

 続いて同じ第1章チーム勃発その4「小金井ジュール、井の頭くな、マルバ」にて、直接、名前は書いていないが、アズーを下し、1998年の第3回選手権に2度目の優勝を飾ったルネス学園のメンバーとして登場している。つまり、藤井は、府中水元クラブ、アズーの伝説の2チームを倒しているのである。ちなみに、この時のルネス学園メンバーには、板谷竹生、原田健二(のちにファイルフォックス)がいた。

 第2章ファイルフォックス時代その1「ファイルフォックス初優勝」では、藤井はルネス学園を卒業、フットサルチームのアスパを設立、1999年の第4回選手権に登場している。このとき、アスパはファイルフォックスに予選リーグで敗れている。続けてその2「第1回アジア選手権」では、本格的に日本代表活動が始まり、相根澄、市原誉昭とともに日本代表として登場している。奇しくも、この2人は藤井の最後のチームであるペスカドーラ町田のチームメイトとなっており、相根はすでに紹介したとおり、2008年に引退している(第13章その1「K9の引退」を参照)。不思議な縁を感じる。

 続けてその9「ファイルフォックス2連覇」では、2000年の第5回選手権に登場、またしても決勝でファイルフォックスに敗れるのであった。この時、準決勝では、ウイニングドッグと当たっており、11-3の大差でウイニングドッグを下している。そのウイニングドッグには木暮賢一郎(のちに名古屋オーシャンズ)がいた。

 第3章カスカベウの逆襲その1「呉越同舟のブラジル遠征」では、ウイニングドッグに敗れ選手権出場を逃した甲斐率いるカスカベウ、ファイルフォックスに決勝で敗れた藤井率いるアスパ、それとファイルフォックスの眞境名オスカー、難波田治、ウイニングドッグの木暮という不思議な取り合わせのブラジル遠征に登場している。この時、戦ったブラジルチームBORDONの名前を取って、帰国後はボルドンを立ち上げている。恐らく、ファイルフォックスに敗れたあとのブラジルでの刺激、人脈の形成など、この遠征は藤井のフットサル人生の1つのエポックだったに違いない。

 ブラジル遠征後の第2回アジア選手権(2000年5月、バンコク)は、バンコクの悲劇といわれた日本が第4回世界選手権を逃した大会である。藤井もそのメンバーで、第3章その3「バンコクの悲劇」で登場している。藤井が引退した今、バンコクの悲劇を味わったメンバーで現役選手は、鈴村拓也(デウソン神戸)と難波田(闘魂に在籍)の2人だけとなってしまった。

 2001年の第6回選手権はボルドンで出場、またしても準決勝でファイルフォックスに敗れてしまう。そして、3位決定戦は、東海の新興チーム、ボーン77と対戦、これを7-2で下し、3位となる。この時のボーン77には、金山友紀、稲田祐介がいて、奇しくも藤井最後のチームメイト(ペスカドーラ町田)となるとは、誰も想像できなかったに違いない。(第3章その9「カスカベウ大願成就」より)

 2001年の7月には第3回アジア選手権が開催されるが、前回大会で世界選手権出場を逃した日本は、監督にサッカー元日本代表の木村和司を起用した。したがって、元Jリーガーが起用されたり、過去の実績が通用しないなどから藤井は選に漏れてしまう。この時、藤井はフットサルを辞めようかとも思ったという。しかし、継続したことにより、その後の日本代表に常に選ばれ続け、2004年の世界選手権(台湾)、2008年のワールドカップ(ブラジル)と2大会連続のワールドカップ出場を果たすのであった。

 2002年には、スーパーリーグに特別参加したマグに入団、関東にもお目見えするようになり、次第に目は関東、日本へと向いていった。そこには、とにかく自分自身うまくなりたいという負けん気と日本のフットサルを競技スポーツとして根付かせたい熱い想いがあったのだと思う。

 そして、3年後の2005年10月、ついに上京、バルドラール浦安の前身プレデターにマグから移籍、2006年には第11回選手権でプレデターを初の日本一に導くのであった。藤井自身にとっては、1998年以来8年ぶり3度目の優勝である。さらに、同じ年の5月、ウズベキスタンで行われた第8回アジア選手権ではアジアNO1にまで登りつめる。

 このように、最初は関東のライバルとしてサッカースタイルでファイルフォックス、カスカベウの源流である府中水元クラブ、アズーの前に立ちはだかり、彼らに刺激を与えた。それがファイルフォックスに敗れること2度、3度、そしてブラジル遠征でフットサルに目覚め、フットサルを極めようと決断する。ところが、目覚めたところで第3回アジア選手権日本代表から外れてしまった。

 しかし、そこから這い上がり、第4回以降、第5回ワールドカップ開催までのアジア選手権7回全ての日本代表に選出され、第1回アジア選手権以来の通算で数えると選出歴としては37回中34回選出されるという偉大な記録を残すのであった。ちなみに選出されなかった3回とは、第3回アジア選手権、2005年4月のイラン遠征(NIOCカップ)、2007年10月のアジアインドアゲームである。

 新旧交代は歴史の常とはいえ、藤井のDNAは是非引き継がれて欲しいものである。

 ということで、もちろんお宝写真は藤井である。写真は、町田でのホーム最終試合のサポーターからのお別れの弾幕にしよう(写真提供/ラブフットボール)。弾幕のメッセージは藤井の人柄を良く表しており、藤井の明るい笑顔は、町田の顔ばかりでなく、フットサル界の顔でもあった。

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 ということで、もう一つの写真は、同じく町田でのラストゲームの笑顔にしよう。もっとも、残念ながらNO8はこの時はすでにチームメイト滝田が持っていたので、背番号はNO18であった。

※この連載は毎週水曜日・金曜日の2回更新予定です。

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