2016.07.13 Wed

Written by EDGE編集部

コラム

関東フットサル三国志/第13章「その5:無名選手から日本代表に駆け上がった”オソドリブル”小曽戸允哉」

Fリーグができるまで、日本フットサルの頂点は間違いなく「関東」だった。その関東を軸に競技フットサルの歴史を振り返っていく当連載。昔からのファンはもちろん、フットサル観戦ビギナーや、Fリーグ以降にファンになった人には「最高の教科書」になるはずだ。
(文・木暮知彦/関東フットサルリーグ広報委員)

シンデレラボーイ

 2008年9月30日、第6回ワールドカップ、日本の初戦が行われた。このとき、Fリーグはというと、その1ヶ月前の8月31日に第7節すなわち1stステージを終了、ワールドカップのための中断期間に入っていた。

  幸いというべきか、いくつかのクラブは建て直しを図る中断期間であった。湘南ベルマーレは、新監督の前川義信が、3分4敗で退任、ペスカドーラ町田は開幕2連敗後浦安に大敗するとバイアーノが退任、パコが就任したステラミーゴ花巻は5連敗、バサジィ大分は監督不在に近い状態でマリオ館山の就任が噂された。

 関東リーグはというと、1部が後期に入り、9月27日に第9節が終了している。2部は、同じく9月27日に第10節が行われている。

  前回のワールドカップ(当時は世界選手権)開催の時は、まだFリーグは立ち上がっていないため、中断というと関東リーグであった。当時は関東リーグとワールドカップは直結していたのである。考えてみれば、サッカーの世界と同じように、日本代表になってワールドカップに出場することが、選手達にとっての大きな目標であった。そして、その夢を達成する機会は関東リーグのみならず都県リーグからもあった時代であった。その結果、数多くの選手がチャレンジし、競技フットサルの世界に足を踏み入れた。いわば、成り上がりの道が身近に見えていた時代であった。

  しかし、Fリーグが立ち上がってからは、日本代表になるにはまずFリーグの舞台に上がる必要があった。これはこれで、ピラミッド構造を作るうえで必要なことではあるが、それだけハードルが上がったことは確かである。そんな状況の中、都県リーグからFリーグに上がり、一気にワールドカップ出場まで駆け上がったシンデレラボーイが出現した。 

 それは、バサジィ大分の小曽戸充哉である。奇しくも、4年前、高橋健介が北海道リーグから上京、プレデターに入団、その年に日本代表デビュー、ワールドカップ出場を果たし、シンデレラボーイと言われたその再来であろうか。

 小曽戸の場合は、15歳で単身アルゼンチンに渡り、8年間南米でプロ選手を続けていたが、帰国後は、埼玉県リーグでフットサルをやりつつJリーグを模索していたという。そんな折、Fリーグが立ち上がり、縁あってバサジィ大分に入団、フットサルに転向することになった。入団した年のオーシャンアリーナカップで2得点、さらに開幕戦でも2得点、その切れ味鋭いドリブルがサッポの目に留まったのだ。

 実際、ワールドカップでは、初戦のブラジル戦、ソロモン諸島戦、キューバ戦と合計4得点を挙げ、日本にワールドカップ初勝利を含む2勝をもたらした。

  しかしながら、2大会連続出場のワールドカップの成績は、決して芳しいものではなく、初戦のブラジル戦は1-12の大敗、2戦目のソロモン諸島、キューバ戦こそ7-2、4-1で勝利したが、最終戦のロシアに1-9と大敗してしまった。結果的には優勝チームと4位のチームとの試合とはいえ、両チームに8点以上の差を付けられての大敗は、前回大会が3位のイタリアに0-5の敗戦結果からすると全く進歩していない印象をもたらした。

 もっとも不運な面もいくつかあった。それは、直前になって高橋健介、小野大輔の怪我による離脱である。高橋はブラジル入りして練習中、小野は初戦のブラジル戦開始2分、怪我で退場、そのままピッチに戻ることはなかった。そのため、急遽、稲田祐介が日本からブラジル入りをしたのであった。 

 ちなみに、このワールドカップのメンバーは、GK川原永光、定永久男、青柳佳祐、FPは、アジア選手権のメンバーだった小宮山友祐、比嘉リカルド、金山友紀、藤井健太、小野、木暮賢一郎、稲葉洸太郎が残り、鈴村拓也、稲田祐介、豊島明、岸本武志、原田浩平に代わって、前田喜史、北原亘、小曽戸、高橋が選ばれた。(実際は、怪我の高橋のかわりに稲田が第2戦から出場)

 結局、ワールドカップの収穫といえば、小曽戸のシンデレラデビューであったが、それは本格的な新旧交代の始まりでもあった。サッポは、これを機会に長きにわたった日本代表監督を去るのであった。

小曾戸

 さて、お宝写真は、シンデレラボーイの小曽戸にしよう。小曽戸は、中学2年でアルゼンチンサッカー留学を経験、それがきっかけで中学卒業後、アルゼンチンに渡った。この写真は最初のプロリーグ、コルドバ州の「Club Atletico タジェレス」の集合写真で、11番が小曽戸である(本人ブログのプロフィールより)。その後、パナマ、アルゼンチンで活躍、中南米チャンピオンリーグで優勝経験までしたが、怪我をして、日本に戻ることを余儀なくされた。2006年、23才の時だったという。

 日本では、サッカーで復帰を目指し、最初は埼玉県の社会人リーグに所属した。しかし、そこで、運命のアドバイスをした男がいる。それは、現ゾット早稲田の加藤貴行である。加藤といえば、小柄ながら鋭いドリブルで活躍。2人はアルゼンチンで一緒にプレーし、同室だったという。

 加藤はすでに戻っていて、ロクFC(埼玉県リーグ)でフットサルをやっていたが、「小曽戸、お前ならフットサルで日本代表に成れる」と誘ったという。実際、ロクFCが、第13回全日本フットサル選手権関東大会に出場したとき、バサジイ大分の目に留まり、Fリーグ、そして日本代表へとシンデレラの道を進んだのであった。小曽戸といえば、バサジィ大分に長く在籍、そのあとはシュライカー大阪と関東には縁がないようだが、生まれが関東(埼玉)、そしてこのエピソードから三国志の一員とする由縁である。

 奇しくも、その関東大会でロクFCを4-2で下したのが、最後のシャークスであった。シャークスは、前にも書いたが、この関東大会では、第3代表で全日本選手権に出場している。そして、シャークスの神は、シャークスをあとにして同じ大分に移籍、神と小曽戸はチームメイトになったのである。サッポは、日本代表では先輩格だった神は選ばず、小曽戸を選んだ。この時、もう1人チームメイトに仁部屋がいたが、仁部屋が日の目を見るのはこのあとのことである。

※この連載は毎週水曜日・金曜日の2回更新予定です。

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