2016.02.03 Wed

Written by EDGE編集部

コラム

関東フットサル三国志/第10章「その1:日本初のプロフットサルチーム・大洋薬品/BANFFができるまで」

定永

Fリーグができるまで、日本フットサルの頂点は間違いなく「関東」だった。その関東を軸に競技フットサルの歴史を振り返っていく当連載。昔からのファンはもちろん、フットサル観戦ビギナーや、Fリーグ以降にファンになった人には「最高の教科書」になるはずだ。
(文・木暮知彦/関東フットサルリーグ広報委員)

 2006年の春、例年、リーグと選手権が終わる頃になると選手の移籍や新しいチームの誕生が活発になる。しかし、この年はいつもの移籍やチーム誕生とは違う重みがあった。それは、全国リーグ発足の見通しが強くなってきたため、全国リーグに出場できるかもしれない、もしかしたら、フットサルで飯が食えるかもしれない夢が加わったからである。しかし、全国リーグ参入のチーム数には限りがある。よって、参入をめぐる熾烈な「場外の戦い」が始まることとなった。

 その戦いの口火を切ったのは、バンフスポーツの桜井であった。2006年3月、早くも全国リーグ参入の発表を行ったのである。

 桜井は、カスカベウでフットサルチームにスポンサードする事例の先鞭を付け、第6回選手権でカスカベウ優勝、第7回Suerte banff準優勝、第9回バンフ東北優勝、そして第11回フォルサ準優勝など、支援の実績を示し続けてきた。本人は、学生時代、強豪の大学サッカー部に所属しており、残念ながらケガで現役を退くことになったが、相当なテクニシャンだったらしい。したがって、この実績は桜井の選手に対する目利きに負うところが大きい。

 しかしながら、通年リーグに定着したチーム作りとなると、1昨年立ち上げた東京都リーグのフォルサ、もともと立ち上げていた東海リーグのバンフFCがあるが、関東リーグのチームに比べると戦力的に見劣りがした。また、会社組織化でもプレデター、カスカベウ、府中アスレティックなどの関東勢が先行していた。さらには、参入に当たっての地域をもはや最終決定しなければならない時期に来ていた。

  桜井は、まず、地域を東海地域、それも名古屋を本拠地とすることに決めた。これには、名古屋を本拠地とする大洋薬品工業の新谷重樹社長(当時)との出会いがある。新谷は、学生時代サッカー選手だったこともあって、地域貢献や会社のCI(コーポレート・アイデンティティ)としてJリーグのチームを持ちたいと考えていたという。桜井も同じ思いを持っていたので、ある会社を通じて紹介されたとき、意気投合したのではないだろうか。とんとん拍子に話が進んで、大洋薬品を母体としたプロ球団の設立、さらには専用スタジアムの建設まで一気に事が決まった。

 戦力面については、まず、監督はバンフ東北以来付き合いのあるオスカーを起用、選手は関東を中心に集めることにした。むろん、オスカーの人脈もある。しかし、参入するからには優勝できるチーム作りと考えたとき、関東の選手の力が必要なことは明らかであった。2006年3月までには、ファイルフォックスから定永、森岡、ロンドリーナから豊島、野島倫、ボツワナから北原を獲得するのであった。むろん、基本的にすべてプロ契約である。すでに一部の選手のプロ契約事例はプレデターの市原などに見られたが、全員がプロ契約は日本初のことである。この物語が始まった1996年から数えてちょうど10年目にして、競技フットサルを目指した数多くのチーム、選手達のプロ化の願いが、突出した1チームとはいえ実現したのだった。

  さて、この10年が早いか遅いか、いずれ、歴史が評価すると思うが、早すぎることもなく、遅すぎることもない歴史的必然であったのかもしれない。もし、もっと遅かったらリーマンショックに直面、Fリーグは誕生しなかったのではなかろうか。逆に、2006年より早く設立できたかというと、「見るスポーツ」を支える環境がフットサル人口にしてもメディアにしても整っていなかった。恐らく、時期早尚と言われたであろう。

  そして、選手達は、すでに東海リーグに参加していたバンフFCを改名した大洋薬品/バンフとして、6月からリーグに参戦することとなった。この間、大物選手の移籍、ブラジル人の追加などが行われたが、これはのちに書くことにする。

  それにしても、「場外の戦い」は、始まったと思ったら、大洋薬品バンフが早くも2歩も3歩もリードしていたのであった。やがて、4月に入ると全国リーグ設立の正式発表があった。

  さて、お宝写真は、桜井が集めた関東からの選手の1人、GKの定永にしよう。この写真は超貴重なもので、イランのテヘランで開催された第3回アジア選手権の集合写真の1コマである。右に定永、左から金山、渡辺、上村と続いている。定永はすでに紹介したとおり、

 新チームの監督オスカーがファイルフォックスを設立した時、大阪から呼び寄せた選手で、長い間、ファイルフォックスのGK、日本代表のGKとして活躍した。しかし、遠藤、川原の台頭により次第に正GKの座を奪われ、第6回のアジア選手権の時には、予備登録となって帯同、しかし、献身的なサポートでサッポ監督をしてワールドカップ出場を決めた立役者と言わしめたことは有名である。

 その定永をオスカーは躊躇なく、名古屋へ呼んだのであろう。定永もこれに応え、監督オスカーこそ1年で退任したが、定永はとどまって名古屋オーシャンズの創成期に貢献した。

 また、日本代表としても2004年、2008年のワールドカップ2大会連続出場の記録を成し遂げた。とりわけ、川原が入団してからは第2GKとして支え、第2PKの時には必殺仕事人のバックミュージックで登場、さっそうと止めて「PK職人」と言われたものである。

 その後、バサジイ大分に移籍、2014年3月には現役引退を発表、現在はシュライカー大阪のコーチとして活躍している。GKは、正キーパーにならない限り、なかなか出場機会に恵まれないポジションである。しかし、無くてはならない存在であることも確かである。

 1998年にフットサル界に足を踏み入れ、引退までの現役18年間、フットサルの黎明期を駆け抜けた定永の経験は貴重な存在であり続けるだろう。

※この連載は毎週水曜日・金曜日の2回更新予定です。

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