2015.04.08 Wed

Written by EDGE編集部

コラム

関東フットサル三国志/第1章「その4:横浜マリノスが参戦した第3回全日本選手権」

Fリーグができるまで、日本フットサルの頂点は間違いなく「関東」だった。その関東を軸に競技フットサルの歴史を振り返っていく当連載。昔からのファンはもちろん、フットサル観戦ビギナーや、Fリーグ以降にファンになった人には「最高の教科書」になるはずだ。
(文・木暮知彦/関東フットサルリーグ広報委員)

 府中水元クラブ、アズーに続いて、第3勢力もこの頃から活発にフットサルに挑戦する。

 まずは小金井ジュール。小金井を拠点とする東京都社会人チームに所属するサッカー兼フットサルのチームである。フットサルではダイコクジュールの名前で東京都から出場する。監督は、梶野政志(のちに関東フットサル連盟委員長)で、選手には寺本尚史、原靖(のちに両者は関東選抜に選ばれる)などがいた。

 次に井の頭くな。井の頭くなは、主に青山の神宮フットサルクラブ(コート)で活動、岡山孝介(のちにプレデター、バルドラール浦安、現在はペスカドール町田監督)、高島大輔(のちにイタリアセリエBに渡る)、嶋根明宏(のちにプレデター)らがいた。

 神宮といえば、この時期、このクラブを拠点にフットサルも盛んに行うサッカーチームがあった。それは、1970年設立の東京都社会人リーグに所属する名門チーム、エリースFCである。そのメンバーにのちに多くの優秀なフットサルプレーヤーを輩出するガロを設立する横田年雄がいた。しかし、そのガロが全日本選手権に参戦するのはもう少しあとのことである。また、塩谷竜生(のちのプレデター監督、バルドラール浦安代表)が率いるBoocchiというサッカーチームがあったが、このチームも神宮でフットサルをやっていた。その関係でのちにプレデターへ発展するわけであるが、これもまた少しあとのことである。

 いずれにしても、神宮も競技フットサル発展にとってなくてはならない地であった。

 茨城では、マルバの前身のSHNHA&CO.+MALVAがこの頃から登場する。県大会で優勝、関東予選に出場している。選手には、のちにマルバ監督の浅野智久がいた。浅野は中学時代、ヴェルディジュニアユースに所属、その後ブラジルにサッカー留学した経験の持ち主で、日本代表候補にもなっている。

 1997年末、いよいよ第3回選手権の関東地域予選が始まった。第3回から、開催地枠が設けられ、東京都予選優勝チームはストレートで決勝大会に進むことができ、都予選2位が関東予選にまわる仕組みとなった。

 前回優勝の府中水元クラブは、都予選で優勝、順当に決勝大会進出を決めた。小金井ジュール(ダイコクジュール)は府中水元クラブに破れ、関東予選にまわり、井の頭くなはベスト8で都予選敗退となった。

 一方、アズーは山梨で出場、県予選優勝を果たし、関東予選に出場した。関東予選ではダイコクジュールを下し、ついに決勝大会へ初出場、野望に一歩近づいた。この時、敗れたダイコクジュールは関東第2代表で決勝大会に進出している。

 明けて1998年1月、第3回選手権決勝大会がはじまった。アズーは快進撃を続け、決勝に進む。その原動力になったのは眞境名オスカーで、ブラジル時代にフットサルプロチーム、コリンチャンスに所属していただけあって、本物のブラジルフットサル技術をチームにもたらした。準決勝は前述のダイコクジュールを下し、ついに決勝に進む。しかし、決勝の相手は第1回選手権優勝のルネス学園甲賀サッカークラブ、引いて守ってすばやいカウンターで点を取るミニサッカースタイルに敗れてしまった。ダイコクジュールは4位に終わっている。

 ところで都予選を勝ち抜き、ストレートで決勝大会に進んだ府中水元クラブはというと、予選リーグで、鹿屋体育大学サッカー部に引き分けたことが響き、得失点差で予選リーグ敗退となってしまった。ちなみに、難波田治(のちにファイルフォックス、大洋薬品バンフ、湘南ベルマーレ、現在は東京都オープンリーグの闘魂)は、この時府中水元クラブのメンバーであった。

 また、この時のルネス学園甲賀サッカークラブには、すでに紹介した藤井はもちろん、板谷竹生、原田健二(両者はのちにファイルフォックス)がいた。また、鹿屋体育大学サッカー部には安藤信仁(のちにグレートホッチポッチ、カスカベウ、現在はカフリンガ東久留米)がいた。

 この第3回全日本選手権に当時の横浜マリノスが参加していたことを知っているとしたら相当のフットサル通と言える。第2回大会から日産自動車がスポンサーになったことから話題作りのために若手を中心に参戦したものであるが、準決勝でルネス学園甲賀サッカークラブに12-2で敗れている。のちにフットサルはJリーガーのセカンドキャリア論が起こったことがあったが、このときは、フットサル自体がまだそれほど知名度がなかったため、マリノス参戦はそれほど話題にはならなかった。

 さて、この頃の貴重な写真といえば、第2回の選手権決勝戦などたびたび笛を吹いた審判の松崎康弘を紹介しよう。冒頭の写真はのちに出てくる第4回のファイルフォックス対筑波大学蹴球部の決勝戦の時の写真である。松崎は、長らく一級審判員としてJリーグの主審を務め、現在は日本サッカー協会常務理事、フットサル委員会の委員長、FリーグのCOOとなって、フットサル界をリードしている。当時は、フットサル審判員制度ができておらす、サッカーの審判がフットサルの審判を兼ねていたのである。フットサル審判員制度が立ち上がったのは、2000年のことであった。

※この連載は毎週水曜日・金曜日の2回更新予定です。

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