2019.03.16 Sat
Written by EDGE編集部
▶Fリーグ
【伝説の証言者】決勝の出場時間はゼロ秒。「あの試合がなければFリーグを目指していないかもしれない」(深津孝祐)

写真:軍記ひろし/本田好伸
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2019年2月28日、バルドラール浦安の深津孝祐は、クラブのHPを通して今シーズン限りでの現役引退を発表した。3月8日、彼の最後の試合は、全日本選手権大会準々決勝の名古屋オーシャンズ戦となった。10年前の2009年3月15日、奇しくも深津は、選手権決勝で名古屋と戦っていた。しかし、ベンチ入りしながらも出場時間はゼロ秒。大会を通してみても、彼の出番はほとんどなかった。もちろん深津は、まだ若く、経験値も少なかった。しかし、10年という歳月を経て見えてきた真実がある。「深津が決勝に出られなかった」ことの意味とは何か。
(取材・文・構成 本田好伸)
「集大成」というより「始まり」の大会
勝者がいれば敗者がいる。喜ぶ人がいれば、悔しがる人がいる。試合に出る選手がいれば、出られない選手がいる。深津孝祐はあの試合、勝者として優勝の歓喜を味わうと同時に、試合に出られなかった悔しさを胸にしまった。その感情が、彼のその後のフットサル人生に大きく影響を与えた。
フウガは全国大会の1次ラウンドを2勝1敗、決勝ラウンドは3戦全勝の成績を収めたが、深津は6試合のうち2試合だけベンチ入りした。いずれも名古屋オーシャンズとの対戦だった。
実は深津にとっての名古屋は、運命とも言えるような奇妙な巡り合わせがある。
話を戻そう。フウガはもともと、都立駒場高校と暁星高校サッカー部のメンバーによって前身チームが結成されてきたという成り立ちを考えると、暁星高校出身の深津がフウガと出会ったことは必然だったかもしれない。
2009年、フットサルを始めて間もないながらも、フットボールスキルの高さが際立つ彼は、熾烈なメンバー争いの中でもまれながら、大舞台での出場機会をつかみ取った。名古屋に2-3の僅差で敗れた1次ラウンドは、「決して悪い試合ではなかった。いけるぞって雰囲気もあった」と、自身も手応えを感じていた。
「僕の感覚ですけど、練習で取り組んでいたことがそのまま得点につながっていました。得点の8割くらいは、やってきたカウンターのそれ。しっかりと守備をしようというところもそう。ボールを奪ったらカウンター。練習でもそれしかやった記憶がないくらいずっとやっていました。だからやることが明確で。それが全部得点につながって、いける、いけるみたいな感じたったのかなと思います」
1次ラウンドを突破して、バルドラール浦安、デウソン神戸と勝ち上がり、決勝の名古屋戦は、深津が回想したように、やることがすべてハマって勝ち切った。フウガの集大成のような、そんな展開だった。
しかし深津にとってこの大会は、「集大成」というより「始まり」のイメージに近い。
「正直、チーム全体のことを見れるような年齢でも立場でもありませんでした。ただ試合に出たい、活躍してやるっていう感じでしかなくて。もちろんすごく嬉しかったですけど、悔しさもありましたね」
「82年組」と言われた主力メンバーの4歳年下で大会当時は22歳。加入して間もなく、フットサルキャリアがあるわけでもない深津は、決勝でベンチ入りしながら1秒もプレーすることができなかった。
今大会の6試合、フウガはベンチ登録の12人を、基本的にGK1人、フィールドプレーヤー11人で構成していた。毎試合メンバーは違ったが、決勝までのすべての試合で、フィールドプレーヤーは必ず出場機会を得ていた。しかし、決勝だけは唯一、早川裕樹と深津の2人だけがピッチに立てなかったのだ。
優勝の歓喜の時間は深津にとって、自分を突き動かすもう一つの感情が生まれた瞬間だった。
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深津は「卒業した先輩をライバル視」した
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