2019.03.15 Fri

Written by EDGE編集部

Fリーグ

【伝説の証言者】フウガ・イズムの生みの親と伝道師。「奇跡のチームはこうして生まれた」(須賀雄大監督&金川武司)

写真:軍記ひろし/本田好伸

【伝説の証言者】FUGA MEGUROはなぜ日本一になれたのか? 7人が明かす「史上最高の下克上」の真実 Witness 1

 

FUGA MEGUROは、乱暴に言ってしまえば幼馴染の仲良しメンバーで作ったサークルチームだった。小学校年代から、早い選手は幼稚園から一緒にボールを蹴り、遊び、すべてを語り合ってきた仲間が2000年、高校卒業前に結成した「ワンデー大会専用チーム」。遡れば、伝説はその時から始まっていたのかもしれない。須賀雄大と金川武司はもちろん、あの時も「監督と選手」という関係を超えてつながっていた。全日本選手権で優勝して日本一になる。それは今の彼らの言葉を聞いても、あの時だからこそできたこと、あの時にしかできなかったことなのだろう。いったい何が起きていたのか。それを紐解くキーワードは、彼らがみんなで築き上げた「フウガ・イズム」というスタイルに凝縮されているのかもしれない──。

(取材・文・構成 本田好伸)

 脈々と受け継がれてきた「フウガ・イズム」という概念がある。

 一言で表せないその概念は、練習の強度、練習回数とは意味の異なる競争環境、オンとオフのメリハリ……今ではフウガドールすみだの「切り替えゼロ秒」という言葉に集約されている。

 ただやはり、言葉ですべてを伝えることはできない。FUGA MEGUROがあの時代にまとっていた「フウガっぽさ」という空気感。それこそが、彼らの強さの源だったのだろう。

 それをもたらした生みの親・須賀雄大監督と、いつでも先頭に立って表現してきた金川武司(現テンションコーチ)。須賀監督は、指導者不在の中で指揮を執るところから、2009年当時はもう、理論的かつ戦術的な監督としてその名を知られるようになっていた。彼は今、すみだで13年目の指揮を執っている。

 金川は、誰よりも豊富な運動量とキャプテンシーでチームを鼓舞するリーダー。時に真面目に、時にふざけるキャラクターは、フウガ・イズムそのものだった。技術・戦術を超えた存在は、選手を引退した今でも、おそらく日本で一人しかいない「テンションコーチ」という形で、クラブに生き続けている。

 バルドラール浦安、デウソン神戸、名古屋オーシャンズを撃破して日本一へ。

 そんなセンセーショナルな出来事はどうして起きたのか。その真実に迫るためにはフウガ・イズムの背景、「あの時代のフウガはどうやって築かれたのか」を知る必要がある。

 奇跡のチームは、こうしてフットサル界に誕生した──。

 

「今、自分が出るために何をすべきか」に徹した

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──10年前のあの優勝はいろんな要因が重なっていたと思います。「あのタイミングでしか実現しなかった」という声もあります。トップレベルで戦える選手もいて、Fリーグもまだ開幕から2シーズン目を終えたばかりという意味では、完成されたものではなかったという見方もできます。

須賀 それでも、バルドラール浦安と名古屋オーシャンズの完成度は高かったと思います。浦安はシト・リベラ監督が指揮を執っていて、パワープレーを戦術的にやっていたし、戦略性もかなり高い。それに(得点王の)イナさん(稲田祐介)がいたり。名古屋は正直、完成度が低いなんて言えないですよ。あのファーストセットとか……。シジネイ、マルキーニョス、ワタル(北原亘)、グレさん(木暮賢一郎)、それに徹さん(完山徹一)とか。もう1つのセットに、薫くん(森岡薫)、ボラ、上澤(貴憲)さんとかがいて。今でも、あのチームが戦っていたらぶっちぎりで優勝するんじゃないかというくらいのメンバーだったと思います。

──結果的には、準々決勝、準決勝と勢いよく勝ち上がっていきました。

金川 今言うとアレですけど、勝つためにこういうことをやろうと監督が決めたことを選手が練習からしっかりとやれていました。緊張感もすごくありましたね。「練習でやっていることが試合に出る」とそこでやり切れていたからこそ、試合でも出せたのかなと。勝つためにというところに向かっていました。

──あの大会は、それまでのスタイルを捨てて「勝つために徹した」という見え方があったと思います。

須賀 決勝の名古屋のイメージが強いので、守備に徹してカウンターで勝った印象がありますし、僕らもそういう思いは確かにありますけど、実はちょっと違います。当時は関東リーグでもかなりハイレベルな戦いをしていました。メンバー外になる選手が神尾(佳祐)、深津(孝祐)、(渡邉)知晃とか。それを考えても、どういう強度の練習をしていたかが分かると思います。

──試合に出るところから競争がすごい……。

須賀 そう。当時はもう明確に、金川(武司)、太見(寿人)、関(健太朗)のセットはとにかく3-1のシステムで、フトを生かす。逆に、(佐藤)亮や(星)翔太、知晃、瀬川(昂暁)とかのセットは4-0のシステムでやるみたいに、攻撃の戦い方の幅をかなり広げていた時期です。よく「サッカースタイル」って、それ以前のボツワナのイメージで言われますけど、フットサルにもかなり取り組んでいました。

──たしかに、関東リーグでは戦術的な強さも際立っていました。

須賀 (荒牧)太郎はまだフットサルを始めて1年目で、サッカーから適応するのが大変なシーズンでしたよね。あの大会は、1次ラウンドも名古屋戦にフォーカスされますが、それ以外の試合に勝ち切るのも簡単じゃない。引いてカウンターだけでは勝てないし、立ち位置がすごく難しかった。名古屋にはチャレンジャーだけど、逆に他の地域チームからはチャレンジされる側でしたからね。そういう意味では、「マインドを切り替えられる選手がいた」という背景があった。気持ちだけの引いてカウンターではなく、「この試合は自分たちがボールを持って主体的に崩さないといけない試合」、「逆にこっちは我慢しないといけない試合」というコントラストがあったわけです。名古屋と浦安戦はそういう我慢の時間がすごく長かったけど、デウソン神戸戦は自分たちが主導権を握る時間が長かった。そういう部分もすごく大きかったと思いますね。

──練習ではどんなことを想定して取り組んでいたんですか?

須賀 1月の段階で全国の出場を決めて、それから名古屋との対戦が決まって、そこからは名古屋対策しかしませんでした。他はすべて捨てて、名古屋に勝つための準備をすると。あとは1年間リーグでやってきたベースがあるのでそれでいいと。

──グループリーグの2戦目で名古屋に勝たない限り先はないですからね。

須賀 そうです。僕は(小学校から一緒にやってきた同級生の)ワタルとの距離が近かったので、それ以前から名古屋のことをよく知っていました。日常的に意見交換をし合っていたので、どういうことに対してイライラするとか、苦手だとか、どんな練習をしているかを理解していました。なので、彼らのストロングポイントはどこで、逆にウィークポイントとうちの強さが合致するところを探ったら、やはりトランディションの部分でした。今の名古屋からは想像できないくらい、当時の名古屋の切り替えが遅かった。そこに価値を見出すしかなかったという状況ですね。

──切り替えはフウガの価値でもありましたね。

須賀 今となっては、当たり前のようにカウンターが戦術的に行われていますが、当時はまだ、カウンターでどう攻める、どう崩すというところが整理されていませんでした。(前日本代表監督の)ミゲル・ロドリゴが来る前でしたし。だから自分たちは、「カウンターをこういうふうにデザインして、こういうふうにフィニッシュに至る」ということを徹底してやっていました。結局はそれが今、僕がやっていることでもあります。

──感覚的につかんでいたことがすごく本質を突いたものだった。

須賀 そうですね。

金川 カウンターは自分が生きる場所だったので、自分ができることをピッチで出すことだけを考えていました。フトを見ながら、当てたらボールをどんどん超えていく作業をどれだけ繰り返せるか。それによって、試合に出れるか出れないかが決まるわけです。関東大会のゾット戦なんかは、僕はメンバー外ですからね。だから相手によって変わってくるところでもあります。「今、自分が出るために何をすべきか」。それがすごく分かりやすくて明確だったので、「これだけをやろう」と思えた。自分の良さをみんなで話し合って、そこをやり切るということを信じていく、その作業でしたね。

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お山の大将を抑止した太見寿人という存在

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