2016.08.12 Fri

Written by EDGE編集部

コラム

関東フットサル三国志/第14章「その3:俺はまだまだできる!藤井健太が新天地・町田で見せたプライド」

Fリーグができるまで、日本フットサルの頂点は間違いなく「関東」だった。その関東を軸に競技フットサルの歴史を振り返っていく当連載。昔からのファンはもちろん、フットサル観戦ビギナーや、Fリーグ以降にファンになった人には「最高の教科書」になるはずだ。
(文・木暮知彦/関東フットサルリーグ広報委員)

町田がもっとも優勝に近づいた日

 2009年11月13日、Fリーグは第13節を迎えていた。この日、変則的に金曜日に駒沢屋内球技場にて府中アスレティックとペスカドーラ町田の東京ダービーが行われた。かつて関東リーグの好ライバルだった2チームがFリーグで対決するのは2戦目で、初戦は先輩格の町田が5-2で府中を下している。この日も町田が3-2で府中を下した。

 翌々日に行われた名古屋オーシャンズ対湘南ベルマーレは3-5で名古屋が破れ、ついに町田が勝ち点3差で首位に立った。ここまで、負けはバルドラール浦安の1敗だけで名古屋には2-2で引き分けている。

 この好調の秘密は、藤井健太の加入に負うところが大きい。序盤こそ名古屋から移籍したマルキーニョスの怪我もあって開幕ダッシュはならなかったが、次第に藤井の勝負強さが、チームに移植されたようだ。6節からの4連勝は全て1点差勝利であった。また、藤井を軸にした金山、ジャッピーニャ、マルキーニョスのファーストセットの得点力は強力で、13節時点の得点ランキングは、ジャッピーニャ、金山が3位、マルキーニョスが5位で、合計25得点は、チーム得点の6割を占めている。セカンドセットの滝田、狩野、横江、森谷らも育ってきており、この時こそ町田が最も優勝に近づいた時だったのかも知れない。

 このシーズン、浦安の若返りの方針から移籍を余儀なくされた藤井が選んだ先は、町田だった。町田には甲斐がいる。

 甲斐はもともと関西出身で、Jリーグを目指していた1996年の夏、中学時代のトレセン仲間の広山(元ヴェルディユース)に誘われてフットサルを始め、関東に拠点をかまえるようになった経緯は第1章で書いた。伝説のチーム、アズーの誕生の頃である。(第1章「その3:伝説のチーム、AZUL(アズー)」

 藤井も関西出身で、1996年1月の第1回選手権ルネス学園で選手権優勝、さらには翌年開催された第1回のアジア選手権代表にも選ばれた。甲斐のアズーはその頃の選手権に触発されて出来たチームである。

 藤井は、その後、アスパ、ボルドン、マグと関西で大活躍、また第1回のアジア選手権の日本代表にも選ばれた。しかし、それだけでは飽き足らず、関東に進出、プレデターに移籍したのは2005年末のことであった。

 同じ関西出身で関東に進出した2人のフットサルに賭ける想いは同じだったのであろう。恐らく、町田で最後を迎えようと思った藤井は、甲斐に花を持たせようと思ったに違いない。献身的なプレーでチームを引っ張ったのだった。実際、2011年2月11日、藤井は引退を発表、2011年第16回選手権が現役最後の選手権となった。(もっとも、その後、湘南ベルマーレで現役復帰、2014年に再び町田に移籍して引退している)

 奇しくも、2008年4月に引退発表した相根も、関西(京都)出身で、プレデターの浦安から古巣町田に戻って引退した。不思議な縁を感じる。

相根藤井甲斐

 さて、お宝写真は、まさに因縁の3人、相根、藤井、甲斐のカスカベウ懐かしの黒白の縞模様のユニフォーム姿にしよう。時期はばらばらばらで、藤井の縞模様のユニフォーム姿が見当たらなかったので、再びラブフットボールジャパンさんにお世話になった。(ありがとうございます。)

 合成の写真とはいえ、恐らく、3人並んだ縞模様の写真は本邦初公開なのではないだろうか。なぜなら、藤井が町田のユニフォームを来たときは、すでに相根は引退していたからである。そして、甲斐は今シーズン限りで引退するという。

 関西出身の3人が関東でフットサル界を牽引、今日の隆盛を築き上げてくれたことに対して大きな拍手を送りたい。町田で藤井は18番だったが、相根の9番、藤井の8番、そして甲斐の5番は、長く語り継がれていくことであろう。

※この連載は毎週水曜日・金曜日の2回更新予定です。

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